RSC(Royal Shakespeare Company)

「ジュリアス・シーザー」公演を観る

左からジェームス・ヘイス(シーザー)、フィンバー・リンチ(カッシウス)、

ジョン・ライト(ブルートゥス)、アリヨン・ベイカー(アントニー)

 

 

二〇〇六年十月七日、シェークスピアの故郷、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで、RSC(ロイヤル・シェークスピア・カンパニー)の公演、「ジュリアス・シーザー」を観た。数ヶ月前に原作を(ドイツ語で)読み、一度実際の公演も見てみたいものだと思っていたとき、インターネットでこの公演を見つけ、切符を取っておいたのだ。言うなれば、難しい本を最後まで読んだ自分への「ご褒美」か。それと、四月から全然休みを取っていないので、この辺で「ミニ休暇」を独りで取るのも良かろうと思った。(これについては、ほとんど目的を達せられなかったが。)

土曜日の午後一時に、車でロンドンを発つ。ストラトフォードまでは百五十キロ。数日前、ストラトフォードの近く、ウォーウィックの大学に通う息子が、自転車を届けてくれと言ってきた。息子のアパートに寄り、車に乗るようにと前後輪を外した自転車を降ろす。それをアパートの玄関で組み立てるのに時間を取られ、ストラトフォードに着いたのは午後四時過ぎだった。

シェークスピアの生家の直ぐ傍の公共駐車場に車を停め、そこから歩いてホテルへ向かう。インターネットを通じて予約したホテルの名は「ファルコン」。ホテルは街中にあるのだが、車を停める場所があるかどうか分からない。それで、とりあえずは公共駐車場に車を停めて、ホテルへは歩いて行ってみることにしたのだ。暖かい土曜日の午後、街中はまだまだ観光客でいっぱい。シェークスピアの生家の前では、観光客たちが互いに写真を撮り合っている。あちこちで日本語の会話も聞こえてくる。

街のほぼ真ん中にあるホテル「ファルコン」は、黒い木と白い漆喰が組み合わさったチューダー様式の木組の建物だった。ホテルには駐車場があったので、またシェークスピアの生家の前を通り公共駐車場へ。ホテルに車を停めて部屋に落ち着いたのが午後五時過ぎ。劇が始まるのが七時半。夕食をとる時間を考えると、ゆっくりと街中を観光している時間は無い。それでも街に出て少し歩いてみることにした。ストラトフォードは今年になってから二度目だが、なかなか絵になる街で、私は好きだ。

パブでスコッチを一杯やってから、マクドナルドで夕食を取る。ちょうどサッカーの欧州選手権の予選、イングランド戦の最中、パブの中は、テレビ観戦の人々で盛り上がっていた。

 

 

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七時頃にエイヴォン川の畔に立つ、ロイヤル・シェークスピア・シアター(RST)へ行ってみる。辺りは既に暗くなっている。その中で劇場がライトアップされて、なかなか良い雰囲気になっている。劇場の前が芝生になっているが、そこのベンチに腰をかけている人たちがいる。何をしているのか見てみると、中華のテイクアウェイ(持ち帰り)を食べている人たち、サンドイッチを食べている人たち。ちょうど、観劇前の腹ごしらえの時間であったのだ。劇場の中にもレストランはあるが、もちろん値段は高い。そこで、普通の観客は、薄暗い中、ベンチで夕食ということになるわけだ。私の夕食も、マクドナルドのフィッシュバーガーだった。

一週間前、ウィンザー音楽祭で、モーツァルトと「レクイエム」を聴いた。つまり、私は二週続けて、結構高尚な趣味に浸っているわけだ。いつもこんなことをしているわけではない。たまたま、二週間続いただけだ。そして、今年はこの二回だけだと思う。ともかく、先週、会場のイートン校の講堂の前で、中華のテイクアウェイをパクついている人はいなかった。この辺が、クラシック音楽とシェークスピアの客層の違いかも知れない。

RSTでは、殆ど毎日シェークスピアの芝居をやっている。しかし、何せ、書かれた作品の数が多いので、ひとつの作品の順番がなかなか回ってこない。従って、自分の見たい作品に巡り会うためには、かなり待たなければいけない。私など、週末しか来られないから、「ジュリアス・シーザー」を週末に観ることのできるのは、おそらくその日だけだったと思う。

劇場に入る。私の席は二階の「サークル席」なので、ロビーから階段を上がる。踊り場のところにカウンターがあって、「休憩時間のお飲み物の予約を承ります」と書いてあった。これは良いシステムだと思う。休憩時間はどの劇場でも十五分から二十分。バーは満員で、なかなか飲み物にありつけないし、やっとありつけたと思ったら、こんどは開演時間が気になって、急いで飲まなければならない。私は、白ワイン、三ポンドを注文し、お姉さんから番号の書いた紙をもらう。

「お客様の飲み物は、二番のテーブルの上に置いておきますから。」

とのこと。

 それとは別に三ポンドを払い、今飲むワインを貰い、二階のロビーのソファに座る。開演前に余り飲みすぎると、途中で寝てしまうから注意しなければならないのだが。私は、ドイツ、レクラム文庫、ドイツ語英語対訳「ジュリアス・シーザー」と、小型の双眼鏡を持ってきていた。

 実は十数年前、私はジョンとウルリケというドイツ人の友人と、この劇場へ来たことがあるのだ。演目はもう忘れてしまった。しかし、

@     前もって本を読んでいないとストーリーはさっぱり追えないこと、

A     双眼鏡を持っていないと俳優の表情までは分からないこと、

このふたつを学んだ。十数年経った今、その教訓を実行しているのだ。我ながら自分のことを、結構物覚えの良い人間だと感心してしまう。

 先週のウィンザーでのコンサートでは、観客は殆ど盛装をした中年の白人ばかりだった。ジーンズで行った私と娘のスミレは、お互いに相手を罵り合っていた。

「パパが何も言わないからジーンズで来てしまったじゃないの。」

「お前の気が利かないからだ。」

今日はネクタイをしている男性がいても、スーツではなく、下はカジュアルなズボンが多い。両親に連れられたティーンエージャーも結構いる。ここにも、クラシック音楽とシェークスピアの支持層の違いがあるようだ。クラシックは金持層、シェークピアはインテリ層というところか。

 開演五分前、私は係員に切符を見せて、客席に入った。

 

 

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 通常の舞台の位置から、客席に張り出すような形で、ほぼ正方形のステージが作られている。白い正方形のステージが、馬蹄形の観客席により、三方取り囲まれていると言うべきか。白いステージにはライトが当たっているが、通常の舞台のある場所はライトが消され、暗がりになっていた。ステージからは手前に花道が通じている。

隣の席は、英国出身だが、今はカナダに住んでいるという六十代の男性。開演まで、少し話をする。双眼鏡を取り出し、ステージに焦点を合わせる。

七時半、公演が始まる。最初に正方形のステージに出てきたのは、黄色、黄緑、オレンジ色など、色取り取りの衣装を着て、太鼓を持った人たち。音楽に合わせて太鼓を叩きながら踊り狂う。気分はローマと言うよりアフリカ。一瞬、今日の演目は「ライオン・キング」だったのかと錯覚してしまう。

「ええっ、『ジュリアス・シーザー』にこんなシーンあったっけ。」

私は筋を必死で思い出そうとする。そのうちに、黒とエンジのあっさりした衣装の役人が現れる。踊り狂っている人たちは、ローマ市民で、シーザー(カエサル)を称えるために街に出ているという事情が分かる。RSCの演出は、いつも斬新で、時には唐突なのだ。

 間もなく、シーザーが取り巻きを連れて登場。シーザーはなかなか重々しい感じの俳優だが、横にいる上半身裸の黒人のムキムキお兄さんがマーク・アントニー(マルクス・アントニウス)であることを知って、またまた驚いた。別に黒人の皆さんに対して偏見はないが、歴史劇において、著名なローマ人の役を黒人が演じることは、私にとって非常に違和感がある。

 私の末娘は歌や踊りが好きだが、学校の演劇でいつも良い役をもらえないとこぼしている。そして、自分は日本人だから損だと言っている。例えば「サウンド・オブ・ミュージック」で、フォン・トラップ家の兄弟の中に、ひとり日本人や、黒人や、インド人が混ざっていたとしよう。それだけで劇のリアリティーが崩れてしまう。だから、日本人や、黒人や、インド人の子供たちは、リアリティーを崩さないような役、つまりチョイ役しか当たらないというのも、ある意味では納得がいく。しかし、RSCでは、リアリティーより、俳優の実力に主眼を置いているようだ。

 休憩時間に、隣のカナダのおじさんに、

「マーク・アントニーを黒人の俳優がやるの、変な感じしませんか。」

と聞いてみた。

「確かに。でも、あの俳優はすごく良い俳優らしいですよ。」

と彼は言う。そして、確かに、シーザー暗殺後の有名なブルートゥスとアントニーの演説のシーンでは、私はほとんど彼が黒人であることに、違和感を持たなくなっていた。

 

 

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アントニーに対して、残る重要な登場人物ブルートゥスとカッシウスは、まさに私の目から見てぴったりの俳優がやっていた。ブルートゥスはちょっと神経質そうで、カッシウスは少し狡猾そう。シーザーがカッシウスを指して言う。

「いいか、おれのそばには肥った男だけを置いてくれ、頭をきれいに撫でつけ、夜はよく眠る男をな。あそこにいるキャシァス(カッシウス)などは痩せてひもじそうな様子をしている。あの男は物事を考えすぎる。ああいう手合いは危険だ。」(福田恆存訳)

まさに、シーザーの言う通りの印象を受けた。

 シーザーは、カッシウス、ブルートゥス等によって暗殺される。通常芝居では、人が切り殺されたり、刺し殺されるシーンでも、まず血は出ない。しかし、今回はドバドバと血が流れる。議会に集まった人々は、白いローブ(トーガと呼ぶらしい)を着ているのだが、それが血に染まり、暗殺に加わった人々の顔も血に染まっている。白い舞台にも、かなりの量の血が流れている。これだけ派手にやると、後で洗濯や掃除をするのが大変だろうなと思ってしまう。

 面白いのは、音楽を担当する人と、効果を担当する人が、暗いステージの奥の薄い幕の向こう側に見えることだ。暗い中、そこだけポッと灯りがついている。音楽担当は三人、キーボードと鉄琴のようなものとパーカッション。効果担当は多分一人だと思う。雨のシーンなどは、ザーザーと音を出す、ローラーのようなものを廻しているのが見えた。

 シーザー暗殺の直後、第三幕第二場の終わりという、ちょっと中途半端な場所で、休憩時間となった。私は、外に出て、ロビーの二番テーブルの上の、三十二番と札の付いたワイングラスを取った。マラソンの時、給水所に預けておいた、自分の番号の付いたスペシャル・ドリンクを取る時みたい。私は、ロビーのソファに腰掛け、白ワインを飲んだ。

 休憩時間が終わり、いよいよ劇はクライマックス、ブルートゥスとアントニーの演説の場面となる。舞台の真ん中がサンダーバード二号の発射台のようにせり上がり、(「サンダーバード」を知らない世代には分からないか?)そこの上で、先ずブルートゥスが、それからアントニーがローマ市民に語りかける。そして、市民は・・・私たち観客なのだ。

 市民という役の俳優は舞台に現れない。ブルートゥスとアントニーは、私たちに向かって演説をする。このあたり、観客参加番組という感じ。しかし、聴衆の台詞もある。例えば、アントニーが話し始めたとき、

「おい、静かに。話を聴こうではないか。」

とか。この声は、私の直ぐ横からも聞こえた。そこに俳優が隠れていたのか、マイクロフォンが仕掛けてあったのかは分からないが。

 最後は戦闘のシーンで、数人の兵士が、舞台の上を走る。双眼鏡でよく見ると、数人の兵士は女性が演じていた。その劇、女性は、シーザーの妻、ブルートゥスの妻のふたりしか出てこない。女優が余っているので、兵士の役で出てもらっているのだろうか。双眼鏡があると、時々変な発見があって楽しい。

 

 

*****

 

劇が終わり、カーテンコールが一回あった。外に出たのは十時半だった。「ジュリアス・シーザー」はかなり長い劇だ。しかし、三時間の長さを余り感じなかった。私はテレビでサッカーの中継を九十分見ているのが苦痛だ。しかし、スタジアムへ行って生で試合を見ると九十分がいつも短く感じされる。観劇にもまさに同じことが言えるのだろう。

劇場を後にするとき最初に思ったこと、それは、戯曲というもうは「読むもの」ではない、やはり「見るもの」だということ。至極当たり前のことだが。台詞も役者の口から出て初めて、生き生きしたものになる。また、戯曲はあくまで総合芸術、俳優、大道具小道具、照明、効果、音楽、これらが一体となって初めてひとつの価値を生み出すものだと。

今年、日本へ帰ったとき、東京の歌舞伎座で、生まれて初めて歌舞伎を見た。視覚的には結構楽しめたが、ストーリー、背景、約束事、役者について知識があれば、もっと楽しいだろうと思った。今回、RSCの舞台を見て、「シェークスピアの戯曲は日本で言う歌舞伎だ」と思った。成立した時代も、十六世紀と似ているが、何より、最初難解なイメージがあるが、まず視覚的に魅惑され、それから知れば知るほど深みを増すという課程が、何とも共通していると思った。

劇場を出て、十分ほど歩いてホテルに向かう。ストラトフォードにはRSTの他に、スワン劇場、カントリーヤード劇場という合計三つの劇場があり、今シーズンは、シェークスピアの全ての作品を演じることになっているらしい。お隣の、少し小ぶりのスワン劇場でも、ちょうど芝居が跳ねたらしく、人々がぞろぞろ外に出てきている。

歴史的な町並みを夜に歩くというのも、風情があって良い。ちょうど満月の夜。私は持っていた双眼鏡で月を見た。月は思ったより大きく見え、大きなクレーターから放射状に出ている光の筋も見えた。舗道には、月の光でできた自分の影が映っている。

 十一時にホテルに戻り、直ぐに眠り、翌朝は八時にもうストラトフォードを発ち、ロンドンに向かった。末娘が、友達の家に「お泊り」に行っているのだが、十時に迎えに来てくれと頼まれていたからだ。わずか十六時間のストラトフォード滞在。これではとても「ミニ休暇」とは言えないなと思う。それでも、シェークスピアの舞台を見られたことに満足して、私は車でストラトフォードを離れた。

 

200610月)

 

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