アルプスを越えて

 

 英国から米国に行くのに、どうして「アルプスを越えて」行かねばならないのか。疑問はごもっともである。これには理由がある。インターネットの格安チケット販売会社「ラストミニッツ・ドット・コム」でロンドン・シカゴ間往復二八〇ポンド(五万円)という馬鹿安航空券を買ったところ、それが何故かミラノ経由だったのである。つまり、ロンドンのヒースロー空港から、最初にシカゴとは一八〇度反対のイタリアに向かって飛び、ミラノのマルペンサ空港で飛行機を乗り換え、もう一度英国の上を通ってシカゴに向かうというコースになってしまった。従って、ロンドンからミラノへ向かう途中とミラノからシカゴへ向かう途中、二回もアルプスの上を飛び越えたのである。

 十月十九日の朝四時、ヒースロー発六時十五分発のミラノ行きに乗るべく、友人の運転する車で家を出た。最近不眠症でどうせ眠れないのだからと、早朝の運転手を引き受けてくれた友人に礼を言って車を降り、チェックインを済ませた。待合室でまどろんでいる間に搭乗時刻となり、飛行機に乗り込む。僕は飛行機ではいつも窓際に座る。まだ、辺りは真っ暗な六時十五分、アリタリア航空機は離陸した。しばらく行くと夜が明け始め、アルプスの上を通る頃には低い朝日が機内に差し込み始めた。

 外を眺めると、雲海の上に、アルプス山々の頂上が点々と顔を出している。どこかで見た光景だと思った。そうだ、京都は竜安寺の石庭だ。私の実家は京都市の北で、千利休や一休和尚で有名な大徳寺のすぐ近く。さらに西には、修学旅行のメッカ金閣寺、石庭で有名な竜安寺、徒然草にも登場する仁和寺がある。まったく個人的な話だが、高校の頃、好きだった女の子が竜安寺の近くに住んでいたので、昔はその辺りを徘徊したものである。

竜安寺は、敷き詰めた白い砂の上に、島のように石を配置した庭で有名である。雲海がちょうど、白砂のよう。雲の並びが、白砂の上に熊手でつけた線のようにも見える。黒々とし、ごつごつしたアルプスの頂は、まさにそこに配置された石である。私はアルプスの上空で、遠い故郷の寺の石庭に思いを馳せた。

 

ミラノに着き、一時間半ほど待ち、シカゴ行きの飛行機に乗り換える。搭乗の前にパスポートのチェックがあるが、係りのお姉さんが何故イタリアに来たのかと英語で聞く。もっともイタリア語で聞かれても分からない。

「単にトランジットで、一時間前にロンドンから着いたばかりだ。」

とこちらも英語で答えると、

「ロンドンからシカゴに行くのに、どうしてイタリアに来たの。」

と更に聞いてくる。自然な質問である。

「それが一番安かったからだ。」

と答えると、「なるほど」と言う顔をして、ニコッと笑って、パスポートを返してくれた。

 

 シカゴ行きの飛行機は、アリタリア航空、ボーイング七六七型機で、結構くたびれている。二百五十人乗りの飛行機に、乗客は約七十人。九月十一日の米国での事件、それに続くアフガニスタン攻撃で、空の乗客が激減したと言うが、本当にその通りである。

エコノミークラスの客室乗務員は全員男、配られたイヤフォーンは大分昔の中が空のチューブで出来た聴診器タイプのもの。テレビも前方にあるだけで、私の位置からはさっぱり見えない。食事用のテーブルを開けてびっくり、これまで座った何十人、何百人の乗客が食事のときに飛ばした「おつゆ」がびっしりとこびりついているのである。だが、腹は立たない。真ん中の列の三席を独占した乗客は、肘掛をバシバシと全部上げてしまい、寝台車状態で旅行ができる。ビジネスクラスの座席がどれだけ後ろに倒れると言っても、完全にはフラットにはならない。この飛行機に関しては、エコノミークラスの方が快適と言える。ひょっとして、今が旅行をするチャンスなのかも知れないと思う。

 飛行機はまた、アルプスの上を飛ぶ。雲が薄くなり、氷河で削られた谷に、流れる水のように雲が細長く残っている。谷を遡っていくと、向こう側にピラミッド型の突起が見える。マッターホルンである。朝の低い太陽を浴びて、砂浜に作った砂の山のように見えた。

 映画が始まったらしく、客室乗務員のお兄さんたちが窓にふたをして歩いている。しかし、時間は昼。外の景色を見るために何人かの乗客はまたふたを開けていた。私も窓のふたを引き上げた。そんなとき、日本航空などでは、あわててスチュワーデスが飛んできて、

「他のお客様のために窓をお閉めください。」

と注意されるところである。その点アリタリア航空は寛容と言うかいいかげんと言うか、乗務員は何も言わなかった。全体に、乗務員を乗客も、何となく投げやりな気分の漂う飛行機であった。

 

 ヨーロッパは仕事や旅行で、ほとんどの国に足を踏み入れた。しかし、米国へ行くのは今回が始めてである。ハワイも行ったことがない。唯一合衆国の土を踏んだのは、日本とヨーロッパを結ぶ飛行機が、まだシベリア経由ではなく、北極経由だったときに、アラスカのアンカレッジ空港に何度か降りたくらいである。今回のシカゴ行きは半年前くらいから決めていた。「初めてのアメリカ」何となく楽しみである。

 所要時間は八時間であるが、飛行機が大西洋上を飛んでいる時間は以外に少なかった。グリーンランドの南を通過して、まもなくカナダの上空に入る。それからシカゴまで、飛行機はカナダの上を三時間近く飛び続ける。ミシガン湖の上空で、飛行機は高度を下げる。湖を横切って、シカゴ上空で着陸態勢に入る。窓から見ると、英国とはかなり町の様子が違う。通りが碁盤の目のように真直ぐで、直角に交わっている。また、家と家の間隔が広く、庭で隔てられているようである。天気は最高。色づいた木々が美しい。

 飛行機は、世界一忙しい空港と言われる、シカゴ・オヘア空港に無事着陸した。入国審査官の無駄口だらだら仕事で時間を取られたが、着陸が予定より早かったので、ほぼ時間通り、私は出口をくぐることができた。シカゴは午後一時過ぎであった。