洋子に振られたこと

洋子の性格はのんびりしているようで、とても神経質なところがある。こちらがあたりさわりのない話をしていると時は、にこにこと聞いているが、ひとたび、話が洋子の思考体系から外れると、

「わたしは、そんなことが嫌い!」

とぴしゃりと釘を刺す。そして、その思考体系がおそろしく洋子流に整ったものなのである。そのくせ、遅刻の常習犯で、毎日のように五分や十分でない遅刻をして来た。

四月の入学式の前の、あの三人での「デート」以来、洋子と僕はクラブでよく顔を合せることがあるものの、ほとんど口を聞かなかった。僕が洋子を好きであることは、親しい友人には話していたが、他人に必要以上に知られたくなかったし、洋子には彼女の友達がおり、学校の帰り道誘うというのも、何となくはばかられた。クラブで毎日顔が見られるだけで、安心してしまったのかもしれない。

しかし、一回誘った手前、いつまでも無視しているわけにはいかない。僕は、もう一歩を踏み出したのだ。そんな義務感にかられて、五月のゴールデンウィークのある日、僕は洋子をまた映画に誘った。

その日、僕は初めて洋子とふたりだけで半日を過ごした。彼女とふたりきりになると、僕はまだ緊張していた。(結局、この「緊張」が解けることは最後までなかったのだが。)緊張のあまり、ずいぶん馬鹿げた行動もしたみたいだが、その日洋子は別れ際まで気持ちよく付き合ってくれた。その日、僕は、待ち合わせた時、気取って薄い色のサングラスをかけていた。映画を見て、洋子をバス停まで送って行った時、洋子が急に、

「さっきの眼鏡、かけてくれない。」

と言った。僕はサングラスをかけると、洋子はそれを見ておかしそうに笑った。僕はそのサングラスを洋子にもかけさせてやった。それからしばらく、珍しく打ち解けて話すことができた。洋子は、バス停でバスを二、三台見送ってくれた。その日のことを僕はペンパルにあてた手紙に書いた。その手紙の中で、僕は「泣きたいくらい幸せだった。」という表現を使った。それまで六年余りの洋子を遠くから眺めていた期間を考えれば、それは決して大げさな表現ではなかった。

洋子は奇妙な女の子であった。普通、初めて合った時より二回目、二回目より三回目と、合う回数を重ねていくうちにだんだんと親密になっていくものだが、洋子の場合、それが二回目くらいで止まってしまった。話していて、何となく打ち解けたかなと思っても、その次に会ったとき、また疎遠になったような気がして、また一からやり直さなければならないように思えてくる。賽の河原で石を積んでいるような気がしてくる。いつの頃からか、洋子と心から親しくなれるのは、一生かかっても成し遂げられないのではないかと思うようになった。

僕は、その頃、同級生の男女が、学校の行き帰りなど、連れ立っているのを見ると、他人に「わたしたちは恋人なのよ。」と、他人に見せびらかしているようで、あまりいい気持ちがしなかった。一学期の中頃まで、学校の中や、行き帰りでは、洋子とは無視しあい、たまに、日曜日など彼女を誘った時だけ話をした。しかし、それはいかにも不自然であったし、毎日話ができたらどれだけ素敵だろうと思った。また、陸上部の、例の練習の鬼の先輩に洋子の話をしたところ、

「いつまでも映画館の中でしかデートをできないようではいかん。」

と言われて、かなりのショックを受けた。僕は、方向転換を迫られた。それからは、洋子を昼休みなど、学校のテラスに引っ張り出して話をしたりした。手を変え、言葉を変え、僕は、洋子に「好きだ」ということを言い続けた。洋子も僕も、本を読むのが好きだったので、話題は自然と本のことになった。その時、洋子が作家を、「三島」とか「谷崎」とか、名字で呼び捨てにするのが、僕には新鮮だった。

しかし、洋子との間には、常に潜在的な気まずさがつきまとっていた。それは、今思うと、僕の心の中の、

「僕は、心の中で六年間思い続けていた相手に、いよいよ今対峙しているのだ。」

という意識が原因だった。その結果、僕はいつも、洋子を過剰に意識したり、変に緊張したりしていた。どうすればいいのか、僕は考えた。そして、もっと洋子と話す機会を多くして、場数を踏んでいくしかないという結論に達した。そして、クラブの練習の帰りに、洋子を誘ったりした。

「もっと自然につきあいたい。」

と、一度洋子に言ったことがあった。

「そもそも、ふたりの関係が不自然である以上仕方がないじゃないの。」

と、洋子にすげなく言われ、またまたショックを受けた。

僕は焦った。何年もの間、洋子を思い続けている間に僕の頭の中に創作してしまった偶像としての洋子の性格と、現実の彼女の性格を混同してしまい、洋子を本当に理解できないでいた。

十一月の彼女の誕生日に、プレゼントを渡そうとして、

「貰う理由がないわ。」

と断られ、その後、一緒に帰ろうと誘って断られ、僕は振られた。それでも、洋子を嫌いにはなれず、彼女は僕の心の中で、元の偶像の位置に戻った。

 

振られ二人組

いよいよ、この自叙伝が今の僕に追いつき、一年以内に起こったことを書くことになった。

高校一年のとき、別の中学から来た、小畠といういがぐり頭の友人と親しくなった。彼もクラシック音楽が好きだった。僕もその頃には、クラシック音楽について、いっぱしの意見を言うようになっていた。彼とは、休憩時間などによく話をした。僕は、モーツアルトはまだしもベートーベンとなると、さすがに重過ぎて、聴いていて感情移入できないところがあった。どちらかというと、もう少し後の、シューマンとか、メンデルスゾーンとか、幾分自由闊達さがある方が好きだった。小畠は、ベートーベンが好きで、彼とはよく、どちらがいいか議論をしたものだった。

やがて、教室で座席が隣同士になると、一段と彼と話す機会が増えた。話題は、もっぱら意中の女性のことであり、授業中もよくひそひそと話をした。いがぐり頭で、いつもむっつりしている小畠の、授業中にひそひそ話している内容が、昨夜の女の子との電話のことだとは、周りの誰もが想像しなかっただろう。小畠は、小学校の頃の同級生で、その頃は別の公立高校の美術コースへ行っている女の子が好きで、毎晩のように、家人の目を盗んで部屋を抜け出し、駅前の公衆電話からその女の子に電話をかけていた。そして、翌日、

「昨日は電話代に八十円も使ってしまった。」

などと、僕に報告するのだった。僕もその頃、洋子を「攻略」しようと四苦八苦していたので、ふたりは自分の「戦績」を報告しあい、喜びあったり、慰めあったりしていた。

小畠は、妙に迷信深いと言うか、つまらないことに関連性を見つけたがる癖があった。 向こうから、鳥が飛んで来るのを見ると、

「あの鳥が、頭の上を通ると、自分の恋は潰れる。」

と言ってみたり、昨夜見た夢を正夢と信じこんで悲しんだり、喜んだりしたりした。つまらないことで、妙な心配をするので、こちらが聞いていて少しいらいらすることもあった。こう言うと、小畠は、青白い男のように思われるかも知れないが、彼はバスケットボールをやっており、運動はかなり器用にこなした。

三月のある日、授業が休講になり、小畠と僕は学校の外に出た。そして、小畠の憧れの女の子の家を捜しに出かけた。彼女は最近家を替わり、それが、僕らの高校からそれほど遠くないことは分かっていた。三十分くらい歩いて、目指す家は簡単に見つかった。その日、公立高校はもう春休みに入っており、彼女が在宅であることも考えられた。彼は、声をかけようかどうか、とても迷っていた。決心したように、彼は戸に手をかけたが、留守であった。その時、彼はがっかりしたと同時に、ほっとしたような表情を見せた。

春休みに小畠は、結局、小学校の頃、彼とその女の子の担任だった先生を通じて、彼女の胸の内を確かめた。完全な片思いで、彼の期待は見事につぶれた。僕と彼と、「振られ二人組」が結成された。

小畠とはよく出歩いたが、大柄で、気の弱い彼と、名神高速のガード下歩いていると、なんとなく安心感を覚えたものである。

 

努力は素質に勝てたか

高校二年になっても、僕の生活はそんなに変わらない。もっぱら女の子のことを考え、たまに勉強をして、放課後は無心に走るという毎日だ。春の合宿から帰ってから、五月に千五百メートルで四分四十六秒という自己最高記録をだしたものの、その記録をついにそのシーズンの終わりまで破れなかった。

学校の体育の時間でも、お荷物であることは相変わらずであった。一度、体育の授業でサッカーをやっていて、バックを守っていた僕の前に敵のシュートが飛んできた。僕は、外へ蹴り出そうと、そのボールを力いっぱい蹴った。ところがボールは僕の意志とは百八十度、つまりまったく反対の方向に飛んでいって、自分のゴールに入った。俗にいう「自殺点」である。

「放っておいたらそれとったのに、軌道修正しやがって。」

「何を考えとんじゃ。」

と、味方からも非難轟々であった。

夏休みには、幾つかの高校の陸上部員が合同で、合宿練習があった。宇治のユニチカの合宿所で寝泊まりするのであるが、気の遠くなるような暑さは、体力よりも、強くなろうという気力を萎えさせた。もう、速く走れなくてもよい、とにかく早くこの場が終わってほしいと思った。昼休みに、頭から水をかぶり、風通しのよい物干し場で涼んでいるとき、一瞬の幸福感と、午後の練習への恐怖感が交錯した。走ることをやめようかと思うこともあったが、夏が過ぎ、秋風が吹き出すと、少しやる気が盛り返してきた。そのシーズンは最後まで練習にも試合にも出たが、またまた、いつもビリの方ばかり走っていた。

高校生の頃になると、いくら運動の素質のある人間も、クラブで専門に特定の運動をやっている人間には勝てなくなる。さすがの僕も、長い距離を走ることでは、学校内では負けなくなってきた。校内の体育祭で、千五百メートルを走った。水泳部の男と一騎打ちになり、最後に離されて負けてしまった。少しがっかりして席に戻ると、クラスの仲間が拍手で迎えてくれた。その時、走っていて本当によかったと初めて思った。また、細くて、弱くて、早死にするのではないかと思った自分が、ここまで来られた事に、自分でも驚いた。

運動というのは、一つが上達すると、それが他の種目に波及することも分かった。体育の体力測定のとき、走り幅跳びがあった。瞬発力を要する種目は、僕の特に苦手とするところであった。走って、ぴょんと跳び、砂場に着地した。後ろで誰かが、四メートルいくらと読み上げた。僕はそれを聞いて、計り間違えだと思った。自分が五メートル近くも跳べるわけはない。僕は計っている男の横へ言って、確かめた。そいつは間違いないと言った。後で、クラスで僕が一番遠くへ跳んだことが分かった。僕は嬉しさよりも、何かキツネにつままれたような気分だった。

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