ボンへ

 

 日本では結局、二週間で百九キロ走った。こちらに戻って十日後にドイツ、ボンでのマラソンが控えていたから、仕方なく走った感じ。果たして、百九キロの効用はあったかな。

 木曜日に関空からロンドンに戻り、金曜日は出社。時々眠りそうになりながら数百通溜まったEメールを読んだ。日曜日の朝、時差ボケも少し調整できたようなので、ゆっくり走ってみることにした。二十五キロの予定で走り出したが、調子は最悪。身体が重い。息が切れる。おまけに途中で左の膝に「違和感」が。それで、二十キロで止めてしまった。走り終わって、「今日は、自分の身体が自分の身体じゃないみたい」と妻に言うと、彼女は「時差ボケと旅の疲れがあるから当然よ」と、慰めてくれた。

火曜日にもう一度走ってみたが結果は同じ。さっぱりスピードは出ず、膝も痛い。僕は完全に諦めムードになってしまった。飛行機の切符がもったいないので、一応ドイツへは行くが、買い物して帰ってこようかと考え始めた。妻にも、多分走らないだろうと言った。

 マラソンで、途中でスタミナが切れたり、痙攣や脱水症状を起こしたり、どこかが痛くなったりして歩き出した時ほど、惨めなものはない。たとえゆっくりでも、走っていればそれほどでもない距離が、一旦歩き出すと途方も無く長くなることを、僕はこれまでの失敗から知っていた。正直、その時は四十二キロ余を最後まで走り通せる自信がなかった。

 マラソンを走るのは楽ではない。それだけに、ゴールしたときの達成感も大きいのだが。しかし、その過程は辛いことには変わりはない。僕はマラソンが近づくと、いつも「走らないで済む」言い訳を考えてしまう。体調や故障、職場や家庭での多忙から来る練習不足、エトセトラ。幾つかの言い訳は探せば常にあるものなのだ。

 木曜日の夕方、もう一度競技場のトラックを走ってみた。その時、わずかではあるが復調の兆しを感じた。膝は相変わらずだが、身体が軽く感じた。タイムを狙わないでゆっくりいけば、ひょっとして最後まで走れるかも知れないと思った。家に帰って、妻に「やっぱり走る」と告げた。否定的なことばかり考えていても仕方がない。取りあえず、スタートラインに付いて、走り始めることで、何かが始まるような気がした。

  土曜日の朝九時、僕はヒースローからケルン行きの飛行機に乗った。五十人乗りくらいの小さなジェット機は、昼前にケルン空港に着いた。シャトルバスで、ボンへ向かう。

ボンを訪れるのは、これで三年連続三回目だ。ボンは、人口三十万人。一九九九年まで首都であったことが信じられないくらいの小都市だ。金沢よりも小さい。しかし、ライン河に面した、なかなか可愛い街で、僕は好きだ。駅から旧市街を抜けて、マルクト広場にある「マラソン・メッセ」の大テントでゼッケンを受け取る。そこで、子供たちへの土産にベートーベンTシャツを三枚購入する。ボンはベートーベンの生まれた場所なのだ。朝食を取ったきりだが、何故か食欲がない。僕はレストランに入り、食事は注文せず、ヴァイツェンビール(小麦のビール)だけを飲んだ。隣の親父が、ヴァイツェンはこの土地のビールじゃないと文句をつけてきた。しかし、その親父もヴァイツェンを飲んでいた。

 

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