平らな場所に住む人たち

 

 僕はレースで、集団の中か他のランナーの直ぐ後にピタリとついて走るのが常だ。向かい風の中では、前に誰か風除けがいるとかなり楽だ。その戦法を頻繁に取るうちに、それが癖になったのかも知れない。その日も、三キロ地点で僕は自分と同じくらいのスピードのふたり組みのランナーを見つけ、ぴったりと後ろに付いた。今回の目標は、呼吸の乱れない、汗をかかないスピードで走ることだ。そうでないと、今のコンディションと練習量ではとても最後までは持たないと思った。

 旧市街の対岸を十キロほど走った後、再びライン河を渡り、その後しばらくライン河の岸を走る。雨の後で、対岸が少し霞んで見えるが、良い景色だ。しかし、僕は帽子を目深にかぶり直し、前のランナーの背中だけを見ながら歩を進めた。スタートからずっと一キロ当たり五分半のペースだ。これだけゆっくりしたペースだと、追い抜かれることが多い。焦ってしまうので、抜いていくランナーを極力見ないように、僕は視線を下に向けた。

 ライン河の岸を三十分程走った後、コースはまた市街地に入る。中間点を通過。一時間五十七分。四時間弱のペースで走っている。僕はパートナーを取り替えた。新たに並んで走り出したのはドイツ人の女性。年齢は僕と同じ四十台の半ばか。彼女は細身で(あまり太った人は走っていないが)日焼けをして、頭には赤いバンダナを巻いていた。名前を聞くと、アンゲリカ、北の方のミュンスターから来たという。彼女にこれまでの最高タイムを尋ねると、三時間五十四分、今日はそれ一分でも越えることを目標に走っていると言う。タイム的には、一緒に走るのにおあつらえ向きの相手だ。

 僕とアンゲリカは、ドイツ語で短い会話を交わしながら、一時間くらい並んで走った。

「ここのコースは起伏が激しい。」

と彼女は言った。僕は耳を疑った。僕がわざわざドイツへ来てマラソンを走るのは、ドイツのマラソンは英国に比べて起伏がないからだ。英国は基本的に丘陵地帯が多いので、緩やかな起伏が常にある。完全にフラットなコースはロンドンマラソンくらいだ。ボンのコースは、橋を渡る以外殆ど坂はないと思っていたのに。全く平らな場所から来たアンゲリカは、少しの勾配も気になるのかも知れない。ミュンスターはひたすら平らな場所なのだ。

 呼吸はまだまだ楽だが、中間点を過ぎる辺りから、足が重くなってきた。最後まで走ることができるか、相変わらず不安を抱えたままだ。「残り半分を切った」と自分に言い聞かせようとするが、マラソンの精神的、肉体的な中間点は三十キロから三十五キロであることを、僕はこれまでの経験から知っていた。

 三十二キロ地点で、アンゲリカがスパートを掛けた。

「今日は絶好のコンディション。こんなコンディションを利用し尽くさない手はないわ。」

彼女は言った。自己記録大幅更新へ、賭けに出たのだ。残りまだ十キロもあることを考え、僕は自重することにした。「じゃあ、ゴールで会おう」と言って僕は並走を止めた。彼女の背中と赤いバンダナが次第に遠ざかっていった。

 

<戻る>