鯨の時計は今九時ら

 

夕闇の迫る、マーケット・スクエア。

 

 三時過ぎに満腹でパブを出た四人は、また幾つかのカレッジを見て回った。正直、最初の方に回ったカレッジの名前を覚えているが、そのうち、覚えきれなくなってきた。しかし、単に僕の記憶力がオーバーフローしただけで、カレッジそのものに魅力がなくなったわけではない。それぞれに、特徴があって、皆なかなか良い雰囲気だ。ありきたりの表現だが、建物や庭木に至るまで、伝統を感じさせる。

とにかく、最初にこの大学が出来たのが、一二〇九年で、一番古いカレッジは一二八四年から存続している。英国にいると、時々、最初はふと聞き流し、その後一瞬置いて「げげ゙っ」と唸るような、身近な「歴史」に出会うことがある。例えば、うちの息子の通っていた高校、「クイーン・エリザベス・ボーイズ・スクール」の創立は一五九七年。日本では関ケ原の合戦の前、まだシェークスピアが生きていた頃だ。その時から、二十一世紀の今日に至るまで、何世紀にも渡って、息子の学校は、毎年新入生を迎え、卒業生を送り出してきたのだ。日本ではおよそ考え難いタイムスパン。

ポヨ子が進学先として、ケンブリッジ大学を選ぶかどうかは分からない。しかし、生まれ変われるなら、自分がこの大学で勉強してみたい、僕は正直そう思った。 

晩秋の英国は、午後三時を過ぎると日が落ち、急速に暗くなってくる。夕闇に追い立てられるように、僕たちは歩く。Y君が「サイエンス」、つまり自然科学系の学部のある一画に連れて行ってくれた。そこには、鯨の骨格が飾ってあった。全長二十メートル。夕闇の中に、鯨の白い骨が浮かんでいる。ポヨ子に尋ねる。

「鯨に時間を聞いたら?」

「九時ら。」

「ゴジラに時間を聞いたら?」

「五時ら。」

 四時十分前に、マーケット・スクエアで、ダンスの練習があるというY君と、またひとりずつハグをして別れる。Y君の案内がなければ、とてもこれほど短時間に、効率的に見て回れなかっただろう。彼のお陰で、普通の観光客の見ることのできない所も、沢山見ることができた。彼には感謝しなければならない。

 Y君と別れた後、ポヨ子が言った。

「今日はとっても楽しい一日だったわ。」

ティーンエージャーは誰でもそうだと思うが、ポヨ子は最近、文句ばっかり言って、全てに満足しない。その彼女の口から、無条件に「楽しかった」と言う言葉を、久しぶりに聞いた。彼女は今日、心から楽しんだのだと思った。

 夕闇の中で、電灯が輝きを増してきたマーケット・スクエアを後にして、僕たちは、駐車場に向かった。

 

(了)

 

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