死んだ人たち

考えれば、飽きもせず毎日走っていた。

十年くらいの間、僕はしばしば同じパターンの夢を見た。それは、死んだ人間と出会うという夢である。登場するとはいつもふたり、伯母と稲田であった。伯母は僕が二十七歳で初めて就職した年に亡くなっている。稲田は大学時代の友人で、僕らが四年生、二十二歳の時、大学の理学部の屋上から飛び降りて死んだ。

夢の中で、伯母と稲田の登場の仕方はいつも違う。伯母は死んで亡霊として登場するのに対し、稲田は生き返った人間として登場する。

伯母は、心筋梗塞で亡くなった。亡くなる数年前からしばしば発作を起こし、入退院を繰り返していた。その年の二月、伯母が倒れて入院したというので、僕は大学のある金沢から、故郷の京都の大学病院へ見舞いに行った。伯母は廊下を改装したようなところに寝かされており、薄暗かった。骸骨が寝ているような印象を受けた。

「元博、おばちゃんはもうあかんは。今度と言う今度は、もう死ぬは。」

と伯母は言った。また、

「金沢のかぶら寿司が食べたいし、買うてきてくれへんか。」

と僕に頼んだ。かぶら寿司と言うのは、鰤の身をはさんだかぶらの漬物で、金沢の名産である。伯母は漬物が好きだが、病院では塩分の制限があって、塩辛いものが食べられないという。

「よっしゃ。今度金沢から買うて帰ったげるし、それまで元気でいてや。」

僕はそう言って、十分ほどで病室を辞した。

実家に帰って、伯母がかぶら寿司を食べたがっていたと父に言うと、

「俺がみても姉はもう長ごうない。お前も見た通り、もう死相が出とる。あれやこれやと食事を制限するより、最後、食べたいと言うものを食べさせてやれ。」

父はそう言った。僕は、京都駅の名店街でかぶら寿司を買って、見舞いに行くという父に託すと金沢へ戻った。

自転車で十五分くらいのところに住んでいた伯母は、小さい時から僕を可愛がってくれた。父が厳しかったので、幼い頃は、何でも聞いてくれる伯母の家へ行くことが楽しみだった。伯母の家へ着くと、いつも近くの駄菓子屋へ、菓子を買いに連れていってくれたことを思い出す。

三月になり、いよいよ翌月からサラリーマンとして働きはじめることになり、僕はまた京都の実家に立ち寄った。そのとき、また、伯母を大学病院に見舞った。

前回の廊下を改装したようなところではなく、伯母は個室にいた。一ヶ月前に見た時は、生きる骸骨といった印象が強かったので、ある程度の状態を覚悟して病室に入って行った。ところが、伯母は血色も良く、表情も明るかった。自分で立ち上がって僕にリンゴをむいて勧めてくれた。僕は、伯母と三十分くらい話した後、安心して病院を去った。

伯母の死の知らせを父から受け取ったのは、四月の中頃だった。父からの手紙は、富山県の就職先の会社の独身寮に届いていた。伯母の葬儀が終わってから既に一週間が過ぎていた。

「働きはじめたばかりのおまえが、余計な心配をするといけないから、敢えてすぐに連絡はしませんでした。今は、一日も早く新しい仕事に慣れてください。」

と父は書いていた。

その日から、今までしばしば伯母の夢を見る。ストーリーはいつも決まっている。僕は伯母の家へ遊びに行く。伯母はいつものように、愛想良く僕を迎えてくれ、お菓子などを出してくれる。しかし、夢の中の僕は、伯母が死んだ人間であることを知っている。自分と話している伯母が亡霊であることを知っている。伯母は、自分が亡霊であることに気がつかないのだろうか。そのことを伯母に言うことは、とても、残酷な、文字どおり死者に鞭打つ行為のように思われる。でも、最後に僕はその一言を口に出してしまう。

「おばちゃん。あんたはもうこの世の人間と違うねん。死んでしもたんや。」

夢の中の伯母の表情が変わる。一瞬骸骨のような醜い表情になり、それからとても悲しそうな顔になる。そして、だんだん影がうすくなり、消えてしまう。そこで僕は大抵目が覚める。

最後に会った時の明るい伯母の表情と、その伯母がその後すぐに亡くなることが信じられないという気持ちが、何年も経った今も、僕にこのような夢を繰り返し見せるのであろうか。

稲田の場合は、夢の中で亡霊ではなく、生き返った人間として登場する。これも筋書きが決まっている。大学の学生食堂とか、グラウンドとかで、昔稲田といたところで、僕はばったりと彼に会う。

「おまえ、死んだんと違うんか。この前おまえの葬式にいったぞ。」

と僕が言うと、稲田は、

「おう。でも、火葬場に行く前に生き返ったんや。」

と答える。

「そうか、それは良かったなあ。」

そんな会話が交わされるのである。

稲田の葬式は、金沢から山をひとつ越した、砺波平野の小さな町にある、彼の実家で営まれた。彼の実家の周囲には、田植えの済んだばかりの田んぼが広がっていた。陸上競技部の全員が参列していた。出棺のとき、棺のふたが開けられた。僕を含め若い参列者は思わず駆け寄って彼の顔を見た。四階建ての建物の屋上から飛び降りて死んだのに、顔や頭は少しも傷ついていないように見えた。稲田らしい、何か少し不満気な表情のまま、彼は死んでいた。

稲田と出会ったのは、大学一年の五月、彼が少し遅れて陸上競技部に入部して来たときだった。一メートル九十近くある長身のハードルの選手で、足も長いが手も長く、走っているときは、その長い手を少し持て余しているようなフォームだった。陸上競技部員としては、異色の理学部物理学科、富山県の無名の高校出身だが、おそらくその高校では成績もトップクラスであったと思われる。練習中も、普段の生活も冗談ひとつ言わないまじめな男であった。彼は、部の貴重なポイントゲッターになった。四百メートル障害で彼の走っている様子は、一種鬼気迫るものがあった。

彼とは、不思議と気が合った。その頃、陸上競技部員の約半数は教育学部の体育科の学生、残りの半数が、理学部、文学部、工学部といったその他の学部生だった。体育科の人間は、筆記テストの他に、体育の実技テストも受けて入学しており、将来の体育教師の卵と言えた。文学部の僕や、理学部の稲田や、その他学部の部員は、教育学部体育科の部員に対して、常にライバル意識を持っていた。稲田などは、

「あいつらは将来の飯の種に陸上をやっているが、俺達は、本当にやりたいからやってるんだ。」

と公言して憚らなかった。僕らの学年は、特に、他学部の部員に優秀な人材が多く、インターカレッジで得点をあげるのは、稲田を始め「本当にやりたいからやっている」連中が多かった。

稲田とは練習が終わった後、よく一緒に飯を食ったり、酒を飲んだ。彼は酒を飲むとますます声がでかくなり、すぐに議論を始めるのだった。打倒、教育学部で彼とは一致しているはずが、彼にかかると、

「お前ら文学部は酒を飲みながら辞書を引いとるだけだけど、俺達は頭をつかって勉強しとる。」

と、時にはこちらもこき下ろされる。毎晩、酒を飲みながら明くる日の予習をしていたのは事実であるが。とにかく、試合が終わった後などは、よく、彼とは飲みに出かけ、よく議論したものである。彼の下宿に泊り、下宿のおばさんに僕の分も朝飯をご馳走になったこともあった。稲田のことを、自分の息子のように親身になって世話をしている、いいおばさんだった。彼も、僕も、ひとりで故郷を離れて、全く新しい交友関係を作らなければならなかったし、お互いに、一緒に汗を練習で流しているという親近感が何ににも増して強かった。楽しい頃であった。今でも、自分の大学生活は、あの陸上競技部の練習場にあると思っている。

学年が進むうちに、彼は後輩たちから怖れられる先輩となり、僕は、後輩の面倒見のいい先輩になった。僕は夜に学習塾の講師のアルバイトを始め、彼に同じアルバイトを紹介してやった。

大学三年の秋、稲田か、学習塾で教えている生徒を何人か引き抜き、自分が家庭教師をすると言い出した。僕は、彼に電話をし、

「お前、なんぼなんでもそれはちょっとルール違反じゃないか。」

と文句を言った。

「お前の知った事じゃない。」

彼は、電話を一方的に切った。

このあたりまでの、言い合いならこれまでも経験がある。その後すぐ電話を掛け直したとき、

「川合、お前は、人前でちゃらちゃらして、信用ができん。」

と彼が言った。僕は、かなり腹を立てて、電話を切った。

それから、冬にかけて、稲田は練習に出てこなくなった。数回大学の構内で見かけたが、茶色の長いレインコートに、ゴム長靴を履き、前だけを睨みつけるようにして歩いていた。こちらのことは完全に目に入っていないようであった。彼は、既に完全に自分の妄想の中だけで生活し始めていたのだ。 稲田が精神病院に入ったということを聞いたのは、それから間もなくのことであった。あの下宿のおばさんが彼を病院につれていったということである。

初夏になり、ある日曜日の夕方、陸上競技部の連中がひとりのアパートに集まって、晩飯を食っていた。その時、一人の後輩が、

「今日、大学で稲田さんを見ましたよ。」

と言った。

「そうか、退院してきたのか。良かったな。」

皆、その時は、こころから「良かったな」と思ったという確信がある。稲田の手を抜かない、一途な性格は、後輩には恐れられてはいたが、彼は、少なくとも尊敬される部員の一人だったし、昨年来の奇行や、常識を逸した言葉も、病気であることで皆許していた。

しかし、翌日、登校した後、緊急に集合がかけられた陸上競技部員が耳にしたのは、稲田の死であった。その日の午後、陸上競技部の後輩の一人が稲田を見た後、稲田は理学部の同級生に出会った。同級生は、退院祝いということで、ビールを買ってきて、稲田と一緒に研究室で飲んだ。飲んでいるうちに、稲田は突然席を立ち、階段を駆け上がり、四階建ての建物の屋上から飛び降りたということである。即死ではなかったものの、頭蓋骨を骨折していた彼は、その日のうちに病院で息を引き取った。

僕にとって、稲田の顔を何ヶ月ぶりに、そして最後に見たのが、その出棺の前に、棺の蓋が開けられた時だった。今でも、彼の死が残念でならない。その残念な気持ちが彼を生き返らせしばしば夢に現れさせるのであろうか。目が覚めて、彼がこの世の者でないことを改めて思い出し、目を覚ましたことを後悔する夢でもある。

 

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