「隠された訳」

原題:Darum

2003

 

 

<はじめに>

 

 一人称で語られる推理小説は多い。主人公の周辺にいる人物が、その主人公のすることを観察し記述した、そんな形態が多いのではないだろうか。例えばシャーロック・ホームズの活躍がドクター・ワトソンにより語られるように。この「隠された訳」も、主人公自らが語り手になっているミステリー。そして彼自身が犯人。本人は全てを知っているのだが、それを語らない(語れない)という不自然さと言うか、歯切れの悪さが、読んでいて常につきまとった。

 

<ストーリー>

 

 新聞記者ヤン・ハイゲラー、四十三歳は、十月の雨の日、女友達のアレックスの引越しを手伝った後、夜「ボブのクールクラブ」という店に向かう。そこで、彼は入り口に近い席を取り、入ってくる客を観察する。彼はジャケットの内ポケットの中に、手袋の中に隠した小型ピストルを持っていた。彼はそのピストルを入ってきた赤いジャケットを着た客に向かって発射する。撃たれた男はその場に倒れる。

 警察が到着する。誰もヤンがピストルを発射したのを目撃してはいない。刑事事件担当記者のヤンは、捜査責任者のトメク刑事と知り合いだった。彼は最初から捜査対象から外され、ピストルを発見されることなく、店を出ることができる。

 彼は翌日「自分が犯人である」と警察署に出頭する。最初警察は彼が犯人であることを信じない。彼は、「燃え尽き症候群」であると医者に診断され、警察から追い出されてしまう。彼は、再び犯行現場のクラブを訪れ、そこで痛飲する。泥酔したヤンは、ウエートレスのベアトリスと彼女のアパートに戻り、そこで一泊する。

 殺された男、ロルフ・レンツの体内から発見された弾が、ヤンの所持していたピストルから発射されたこと、そのピストルにヤンの指紋しか発見できないことが明らかになり、ヤンは逮捕される。殺されたレンツは、同性愛者であった。「ボブの店でのゲイ殺人事件」の犯人として逮捕されたのが、新聞記者であることが分かり、世間は騒然となる。特に各新聞は、明らかな誤認逮捕であると書き立てる。

 ヤンは三人の刑事の取調べを受ける。ヤンはレンツを殺したことは認めるが、動機については一切口を噤む。また、殺されたレンツとの関係についても一切明かさない。ヤンの知性あふれる穏やかな人柄に刑事たちも好意を持つようになり、ヤンと刑事たちの間には、仲間意識のようなものが生まれる。

 ヘレナ・セレニックがヤンの件の予審判事となる。ヘレナは三十代半ばの、「高飛び込みの選手」を思わせる、スラリとした、なかなか魅力的な女性だ。彼女もヤンに「何故レンツを殺したのか」と何度も尋ねる。しかし、ヤンは理由については頑なに答えない。また、ヤンは弁護士の同席も拒み、裁判には国選弁護人で十分だと言い張る。

 ヤンは裁判までの日々を拘置所で過ごすことになる。ヤンの人柄、マスコミからの圧力もあり、ヤンへの待遇は押しなべて良いものだった。ある夜、拘置所の庭でジョギングをしていたヤンは外部から侵入してきた男たちに襲われる。犯人は皆同性愛者で、殺されたレンツの仲間と思われた。男たちはヤンに性的暴行を加え、逃げ去る。ヤンは、当直の看守に責任問題が及ぶのを防ぐために、その事件を公にしない。

 そんな頃、ヤンに手紙が届く。中には「ブラジル」と書かれたナプキンが入っていた。ヤンはその手紙に勇気付けられ、そのナプキンを大事に仕舞いこむ。彼にはその差出人が女性であり、そして誰であるか見当がついていた。

 ヘレナは色々な手を使ってヤンの過去、事件の背景を探ろうとする。ある日、ヤンが予審尋問のために、ヘレナの部屋へ出頭すると、そこにデリアがいた。ヤンはかつてデリアと一緒に住んでいた。しかし、十数年間共に暮らした後、ふたりは別れ、デリアは現在、新しい恋人と一緒にパリに住んでいる。実際、ヤンにとってデリアとの別れは、心の中の大きな傷となっていた。デリアはヤンに優秀な弁護士を紹介することを提案するが、ヤンはそれを断る。

 ヤンの元に、友人のアレックスの自殺の知らせが届く。衝撃を受けたヤンは、予審判事のヘレナに重大な知らせがあるので、直ぐに会いたいと伝える。拘置所へやって来たヘレナは、ヤンの仮釈放の手続きをし、彼を自宅に連れ帰る。そこでふたりは夜を過ごし、関係を持つ。

 裁判が始まる。裁判長はアンネリーゼ・シュテルマイヤーという女性だ。裁判の前夜、ヤンはヘレナから「戦え!」と書いた手紙が届く。

 裁判で、ヤンは、

「自分は殺されたレンツを個人的には全く知らない。自分はただ誰でもよいから人を殺したかったのだ。」

と主張する。しかし、その動機について彼は裁判長や陪審員の質問に答えることができない。証人として呼ばれた彼の同僚や友人も、彼が無差別に殺人を犯すような人間でないことを、口を揃えて証言する。裁判の流れは、

「ヤンが自殺をしようとしてピストルを誤発射し、通行人を射殺してしまった。その責任を感じて、自分を罰せようとしている」

という方向に傾いていく。

 ヤンはそこで方向転換をする。

「自分は同性愛者で、死んだレンツとは恋人同士であった。彼に若い恋人ができたので、その嫉妬心から射殺した。」

と彼は証言を変える。しかし、言葉も、他の証人の証言と食い違い生じ、ヤンはだんだんと窮地に立たされる。誰もがヤンはまだ何かを隠していると感じている。

 裁判が始まってから、開廷の前に必ず、ヤンは不思議な手紙を受け取るようになっていた。その手紙を読むたびにヤンは愕然としていた。そこには自分しか知らないはずの「真相」が暗示されているのだ。ヤンは、自分以外に、真相を知り、陰でこの裁判をコントロールしようとしている人物がいることに気づく・・・

 

<感想など>

 

 アガサ・クリスティーの作品に「アクロイド殺害事件」がある。ある村の金持ちであり実力者であるアクロイド氏が殺され、彼の主治医であるシェパード医師がその事件の顛末を語る。果たして、犯人は「私、シェパードでした」というのが「オチ」。読んでいて騙されたように気分になるが、当時としてはなかなか斬新なアイデアであったのだろう。「隠された訳」を読んでいて、その「アクロイド殺害事件」を思い出した。

 ヤン・ハイゲラーは「語り手」であり「犯人」である。当然、自分が「犯人」であるから、動機や顛末等、全てを知っているはず。しかし、「語り手」としては、それを最初から明らかにできないわけだ。しかし、読者に伝えることは伝えねばならない。その辺り、語り口に煮え切らない、不自然な点があり、読んでいる人間に少し欲求不満を感じさせる。

 

 ヤンは不思議な男である。どう考えても、「有罪になりたがって」いるのだ。優秀な弁護人は必要ないと断り、普段は不動産の売買を専門にしている国選弁護人、トーマス・エールトに弁護を依頼する。エールトは太っていて汗っかきで、何となく頼り甲斐のない男だ。裁判が始まると、ヤンは検察官の罪状朗読に共感し、弁護人の発言に反発する。そして、裁判の流れが自分に「有利に」つまり無罪に向けて傾くと、それを断ち切るような、自分を「不利に」導くような証言をする。しかし、その不自然さゆえに、周囲の人間はヤンのそのような行動は、結果的に「誰かを庇って自分が罪を着ようとしている」という印象を与えてしまうのだが。

 ヤンは裁判の流れを自分でコントロールして、何とか自分の方に引き寄せようとする。しかし、いつしか別の流れが何者かによって作られており、自分がそれに流され始めていることを知る。

 

 人間、ふたつの顔を併せ持つと思う。特に、周囲から「いい人」、社会から「尊敬される人」と思われている人は。人間、「いい人」であることは疲れるものだ。そんな人ほど、疲れを取るために、逃避のために「別の顔」を持っていることが多いと思う。ヤンの同僚も、友人も、

「ヤンのように自己をコントロールできる人間が、激情に駆られて殺人を犯したりするはずがない。」

と証言する。彼には、他人にそう思わせる不思議な力を持っている。果たして、どのような「別の顔」が隠れているのか、読んでいて何度も想像を巡らせることになる。そしてそれが最後に明らかになる。

 

 ドイツ語で「どうして?」と聞くのは「Warum?」、「だから」と答えるのが「Darum」だ。

 ヤンは殺人を自白するが、「どうして?」と言う問いには口を噤んでしまう。彼自身、これまで余りにも「問題のない人間」であっただけに、誰もその答をみつけることができない。その結果、マスコミ、裁判関係者、その他の人に色々な憶測が飛び交う。「自殺しようとして間違って他人を撃ってしまったんじゃないの」だとか「同性愛者の痴情のもつれ」だとか。

 逃げられなくなったヤンは、「だから」という部分を小出しにしていかざるをえない。しかし、最終的にヤン以外の人々の達した「だから」という結論は、等のヤン自身も及びもつかない点だった。彼は周囲の人々を操作しようとしていた自分が、結局は何者かに操作されていたことを知るのだ。

 最初に事件があり、動機について憶測を呼び、最終的に「隠された訳」、動機が明らかになるという展開。

 「Warum」「Darum」というキーワードが物語のあちこちで現れる。例えば、ヤンがデリアとの別れを回想する場面。

デリア:「あなたにさよならを言うためにここへ来たの。」

ヤン:「どうして。」(Warum?

デリア:「だからよ。」(Darum.

その理由を語っているのは彼女の眼だけだった。(107ページ)

 

 ヤンを巡る女性は四人。

 数年前に分かれたデリア、彼女との別れはヤンにとって、大きなトラウマになっている。

 友人のアレックス、殺人のあった深夜、アレックスのアパートを訪ね彼女を抱いたことをヤンは後悔している。

 ヘレナ、妙に知性的で魅力的な予審判事、こんな女性が三十六歳まで独り身でいることに少々不自然を感じた。

 ボブのクールクラブのウエートレスのベアトリス。

彼女たちが全て、ヤンの応援に回るのは、ちょっと恵まれすぎているような気がする。

 ヤンは最初から、事あるごとに「二、六、〇、八、九、八」という数字を口にする。あたかもこの数字が、彼の守り神であるように。そして、まさにこの数字こそ、彼の過去と真実が仕舞われている金庫を開けるコードとなるのだ。

 正直、主人公にもう少し肩入れ、感情移入ができないことには、最後まで読むのが少し辛い作品だ。

 

20101月)

 

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