北の海

金沢大学の駅伝チームのメンバーと、前列左端が筆者

 

終点で電車を降り、海の方から吹きつける強い季節風に逆らって歩いていくと、道が終わり、砂丘がうねっていた。砂丘には、一定間隔でかまぼこ型の弾薬庫の建物が並んでいる。少し前まで、ここが米軍の射撃練習場だったという話を思い出した。砂丘のむこうには早春の日本海が広がっている。砂丘を横切って波打ち際まで行き、砂の上に座ってみる。水平線が自分の目の高さよりもずっと高く見えるから不思議だ。突然、堰を切ったように水平線が破れて、自分は押し寄せてくる海に飲み込まれてしまうのではないか、そんな錯覚に陥ってしまう。

海の色は薄い緑色である。当時の僕は、冬と夏で海の色が全く違うことを知らなかった。その時の海はまだ冬の色のままであった。空には累々と雲が重なり合っている。その一箇所だけ雲が切れているところがあり、その下だけ海が淡い銀色に光っていて、とても美しい。しかし、間もなく、雲の切れ間から洩れる数本の光の筋も、押し寄せる雲の大群に押しつぶされてしまった。

それは、僕が金沢に着いた翌日であった。まだ他の下宿人は誰もおらず、整理をするのにも、たいして荷物もなく、部屋で暇を持て余して私に、下宿のおばさんが、砂丘でも見てきたらと勧めてくれた。

「何もない所やけど、初めてこの街に来た人は、大抵あそこに感心するから。」

と言うのが理由であった。僕はそれまで海を見る機会に恵まれていなかったこともあって、駅前から出ている、小さな電車に乗りここに来たわけだ。

京都最後の夜、近くに住む西田と、家の近くの公園で、馬鹿話をしながらウィスキーの小瓶を回し飲みしていたのが、一昨日のことだとは何故か信じられなかった。和泉と、

「これが最後やね。」

と言いながら、北野の天神さんの縁日へ出かけたのが、まだ一ヶ月前あることも信じられなかった。後でも経験することだが、人間、環境が変わると、一ヶ月前のことも、はるか昔のことのように思えてくるものだ。

僕は、三月にこの街の大学に合格し、四月より、折り合いの悪い両親のいる京都の実家を離れ、いよいよ一人で暮らすことになったのだ。当時の私は、やる気に燃えていたといっても過言ではない。映画なら、ここで海に向かって「やるぞー。」と、叫び声でも上げるところだが、私はその代わり「あーあ。」とため息のような声を出した。「何かが、始まっちゃった。もう止めることはできない。」ということに対しての「あーあ。」だった。そして、今度は風を背中に感じて駅の方へ向かって歩きだした。

次の日、あとふたりの下宿人も実家から帰ってきたので、話し相手が出来た。隣の人がテレビを持っていたが、テレビのチャンネルが少ないのに驚いたりした。三日後が大学の入学式だった。当時、大学は金沢城内にあり、入場無料だった兼六園の中を横切って、一張羅のブレザーを着て出かけて行った。入学式に先立って、合唱部の人が校歌の紹介をやったが、「天打つ波、煙らい」というところで、僕は数日前に見た日本海の光景を思い出した。

入学式会場の体育館を出たところで、色々なクラブの勧誘をやっていた。僕は、陸上競技部のところで立ち止まり、それまで考えもしなかったのに、その時は全然迷わずに名前を書いた。そしてまた、「あーあ、また始めちゃった。」と自分に言った。

こうして、僕の金沢での生活が始まった。その時は、結局金沢に八年間も住むことになろうとは、もちろん予想もしていなかった。陸上競技部の部員募集に名前を書いたこと、これも僕の人生の多くを決定した。井上靖の著書に「北の海」がある。有名な「しろばんば」の続編とも言える作品で、井上靖自身でもある洪作が、金沢にある第四高等学校に合格し、そこで柔道を通じ、色々な交友関係を広げていく。洪作にとっての柔道が、僕にとっては走ることだといってよい。毎日毎日ひたすら走ったことに対する辛かったこと、爽快だったこと、ばか騒ぎをしたことの他に、それからの人生を方向づける、色々な人と出会った。三年間つきあった恵美は同じ長距離の選手だったし、今の妻と出会ったのも、市営陸上競技場での練習の前であった。また、八年間の学生生活の後、就職した会社も、陸上競技部の同級生の紹介であった。

これから、僕と同時代を過ごした人たちとの出会いと別れを描くことを通じて、その後の自分の足跡を辿る旅に出たいと思う。時代が、行きつ戻りつで混乱することになるかもしれないが、取りあえず足を踏み出そうと思う。

 

<次へ> <ホームページに戻る>