ドイツ語題 Mӧrder ohne Geshicht 「顔のない殺人者」

原題 Mӧrdare utan ansikte

 

作者 Henning Mankell ヘニング・マンケル

1991

 

はじめに

 

ドイツに住んでおられる本好きの女性からお便りをいただき、マンケルが面白いとお聞きした。The Lord of the Ringsの第一巻を、苦手の英語で、一ヶ月以上費やして、実際「もういい加減に堪忍して」と思いつつ、何とか読み終えた私は、その頃、サクサク読めて歯切れの良い本に飢えていた。早速、インターネットのドイツ「アマゾン」で、そのドイツ在住の女性が面白いと薦めてくださったマンケルの本を、四冊注文した。そのときは、不勉強にも、マンケルがまだドイツの作家だと思っていた。本が到着し、中を開けてみて初めて、マンケルがスウェーデン人であり、原作がスウェーデン語であることに気がついた次第である。

ドナ・レオンは米国人であり、英国の出版社からその本が出ているが、ドイツでの方が、人気を博しているような気がする。確かに、映像化されているのはドイツだ。マグナレン・ナブも然り。ドイツではどこの本屋でも目にするが、英国では、本を手に入れることさえ難しい。具体的に説明するのは難しいが、ドイツ人好みの作家があると思う。そして、マンケルも確かにその範疇に入ると確信が持てる。

登場する人名、地名はもちろんスェーデン語である。登場人物の苗字は、ハンソンとかマグヌソンとかエリクソンとかやたら「ソン」が付く。スウェーデン語の発音をいちいち調べるのが面倒であるゆえに、乱暴ではあるが、全てドイツ語読みで書かせていただく。ドイツ語で読んだという理由だけで。従って、主人公の名前も英語読みの「カート・ワランダー」ではなく「クルト・ヴァランダー」と記すことになる。

 

 

作者について

 

一九四八年にストックホルムで生まれる。六十年代の後半から作家、劇作家、演出家として活動を始める。九十年代に入り、当時のスウェーデンの社会問題を背景にしたミステリーを書き始める。ヴァランダーの登場する一連の作品は、スウェーデンのみならず、各国で愛読されている。(と言っても、日本ではまだ二冊しか翻訳されていないようであるが。)

 

主人公について

 

主人公は、クルト・ヴァランダー(Kurt Wallander)である。彼はイスタドというスウェーデンの小さな海辺の町の警察に勤めている。警視であり、警察では署長に次いで二番目の地位である。年齢は、この物語の中では四十二歳。

彼は、ごく最近妻に逃げられ、一人暮らしである。彼の妻は自分の道を歩みたいと言って、家を出て行った。ヴァランダーはまだ妻に未練がある。彼の娘は十五歳のとき、自殺未遂を起こし、その後、家を飛び出して帰って来ない。彼の父は画家であるが、八十歳を過ぎて一人暮らし。そろそろ身の回りの世話が心配になってきているのに、頑固な本人はそれを拒否している。つまり、この物語に登場した時点のヴァンダラーは、家庭的に八方塞がりの状態なのである。

彼はいつ眠るのかと思うほど、長時間仕事をする。そして、眠気覚ましのためか、やたらとコーヒーを飲む。ベッドの中でもしょっちゅう仕事のことを考えている。妻が彼のもとを去ったのも、おそらく、彼の捜査への、異常なほどの執着と、その結果、家庭を顧みない態度からだと推測できる。彼は警察に勤め始めて間もなく、もう少しで命を落とすような大怪我をしている。しかし、彼はそれにひるむことなく、今まで、全力で犯罪と戦ってきた、そんな人間なのである。

ヴァンダラーの生甲斐はふたつ、ひとつはオペラであり、もうひとつは、最近転勤してきた女性検事、アネッテ・ブロリンである。彼女は、夫と子供をストックホルムに残して単身赴任で、ヴァランダーの家の近くに住んでいる。彼は車の中や、妻が去った自宅で、ヴァランダーはいつもオペラのレコードを聴いている。そして、ストックホルムから来た、生意気なブロリンに最初は反発を覚えながらも、彼女の若さと才気に魅せられ、妻への思いを断ち切ろうとする努力と反比例して、ブロリンへの想いが募っていくのである。

一言で言えば、主人公はスーパーマンではなく、公私ともに悩みをかかえた一人の中年男なのである。

 

ストーリー

 

一九九〇年。イスタドの近くの農村。ある一月の寒い朝、ある老人が隣の家を見ると、窓が開いたままになっている。彼は、隣人の夫人の叫び声を聞いたような気がした。彼が、隣人宅に様子を見に行ってみると、その家の主人、年老いた農夫のヨハネス・レヴグレンが、顔が潰れ、足の骨が露出するくらいのひどい暴行を受けて死んでおり、その傍で彼の妻、マリアもロープで首を絞められ、意識不明で倒れていた。彼は警察に連絡、ヴァレンダーとその部下が駆けつける。ヴァレンダーも部下も、余りの残虐な光景に、吐き気を催す。意識不明の妻も、数日後に病院で息を引き取る。その前に一瞬意識を取り戻した彼女が言ったこと、それは「外国人が」という一言であった。

イスタド警察署にヴァランダーの率いる捜査本部が置かれる。現場検証を担当したリュドベルクの発見では、夫人の首に巻いたロープの結び目は、スウェーデン人によるものではないと言う。スウェーデンにいる「外国人」をターゲットに捜査が展開される。

スウェーデンの片田舎にいる外国人。一見、簡単に見つかりそうな気がする。しかし、それがまたわんさといるのである。東ヨーロッパやアフリカ、中近東からの亡命希望者がフェリーボートに乗ってスウェーデンの港に到着。その亡命希望者たちで満杯の収容所があちこちにあり、当時(そしておそらく今でも)、スェーデンの社会問題になっていたのである。税金が外国人の為に使われるし、治安は悪化する。外国からの移民をこれ以上受け入れるべきかという議論が、政治的な議論の中心であった。

ところが、警察が外国人を犯人であると確証しているという情報が、テレビで放送されてしまう。「やっぱり犯人は外国人だったんだ」と、ただでさえ、政府の移民政策に反対する機運が強いところへ、この情報で反外国人の感情が高まってしまう。

移民収容所に放火され、その後、収容所の近くを散歩していたソマリア人の亡命希望者が何者かに射殺される。ヴァランダーと警察は、農夫夫妻の殺人事件に加え、亡命希望者の殺人の捜査を背負い込むはめになる。

事件から数日後、殺された農夫の妻マリアの兄弟と名乗る、ラルス・ヘルディンと男が警察に出頭する。ヘルディンは、平凡な農夫だと思われていた被害者のヨハネス・レヴグレンが、第二次世界大戦中から、肉をナチスドイツに密売することにより金を儲け、現在もかなりの財産を蓄えていること。また少し離れたクリスティアンスタドという町に、愛人を囲い、子供まで産ませていること。そして、妻のマリアにはまったくその金や愛人の事実を隠していることを告げる。ヴァランダーは殺された農夫の銀行口座を調べる。果たして、そこには農夫のつつましい生活からは考えもつかないような大金が預金されていた。単なる物取りの犯行としては余りにも残忍な点に不審を抱いていた警察にとって、怨恨、金を巡るトラブルという新たな可能性が生まれてくる。

季節は陰鬱な冬。天候と、家庭問題に悩まされながらも、ヴァランダーの捜査が続く。

   

感想など

 

世界で一番一人当たりのコーヒーの消費量が多いのはドイツであるそうだが、スウェーデン人もそれに負けずにコーヒーを飲むようだ。この小説を読んでいて、一番に感じたことは、ヴァランダーがやたらとコーヒーを飲むことだ。朝起きて飲み、父親のアトリエで飲み、同僚に頼んで部屋に持ってきてもらい、捜査の合間に警察の食堂で飲み、朝、昼、晩とコーヒーばかり飲んでいる。

また、ヴァランダーの睡眠時間がやたらと少ないことにも驚く。遅くまで署に残り、夜の見張りを引き受け、それでいて目が覚めると、居ても立っていられなくなって、警察署にかけつける。働き中毒のかつての日本人も裸足で逃げ出す長時間労働なのである。妻のモーナに逃げられて独り暮らしであるから、このような生活が送れるのか、それともこんな生活ぶりに奥さんが愛想をつかしたのか。 

ヴァランダーの捜査術は、かなり直感によるところが多い。「何かがおかしい」とふと感じたところに、執拗にかじりついていく。その直感とねばりには、誰もが一目置いている。しかし、ヴァランダーは論理の人ではない。論理的な推理は、同僚のリュドベルクが引き受けている。ヴァランダーは自分の直感をいつもリュドベルクに話して、彼の意見を聞き、軌道修正を行っている。

また、事件の解決への過程は、彼の独壇場ではなく、そこには、いろいろな協力者が登場する。そう言う意味では、チームワークの勝利でもある。同僚のリュドベルクについては述べたが、クリスティアンスダドの刑事、ギョラン・ボーマンもよき理解者で協力者である。何より、銀行の窓口に座っている、やたらと記憶力のいい若いお姉ちゃん、ブリッタ・レナ・ボーデンの協力なしでは、今回の事件の解決は語れない。

最初に「サクサク読める」と書いたが、文章の歯切れの良さは素晴らしい。随所に、単語だけのセンテンスが散りばめられている。景色を半ページに渡って長々と説明する箇所などがないのも良い。もっとも、スウェーデンの田舎町が舞台では、あれこれ説明するような景色も、歴史のある建物もないわけであるが。会話も説明も最小限で、軽快で、最後までテンポを失うことなく読める。そう言う意味では、かなりテレビの脚本を意識して書かれたという印象を受けた。

読み終えて、なかなか好印象の作品であったので、当分、マンセルとヴァランダーを追ってみることにする。今回、同僚で、よき助言者のリュドベルクが最後に癌で余命がないことが分かる、次の本で、ヴァランダーが彼の助言なしにどのように事件を解決するのか、興味深い。

 

(Mar/2004)