「微笑む男」

ドイツ語題:Der Mann, der lächelte

原題:Mannen som log

1994

 

<はじめに>

 

 四百ページ以下と比較的短い作品。(それでも読み終えるのに二週間かかったが)ストーリーも、他の作品のように、南アフリカ、ドミニカ共和国、ラトヴィア等海外に飛ばず、ほぼスウェーデン・イスタドの近辺で展開するという、少し地味な感じのする作品である。展開は地味だが、やることはやるという感じ。今回も、前作同様、ヴァランダーは、警察の同僚のサポートを受けず、彼独自の判断で、ひとりで敵地に乗り込んでいくのである。作者として、このパターンは崩せないのかと思ってしまう。 

 

 

<ストーリー>

 

例によってプロローグがある。大抵は海外であるが、今回は、スウェーデン国内。それもイスタドの近郊である。

イスタドに住む老弁護士、グスタフ・トルステンソンは、一九九三年十月十一日の夜、ファルンハイム城に住む顧客を訪れての帰り道、霧の中を運転していた。彼は、城に住む「いつも微笑を絶やさない男」を何故か非常に恐れていた。突然、椅子に座った人形が、道路の真ん中に現れる。彼は車を停めて外に出る。そして、そこで何者かに撲殺される。

 

ヴァランダーは、南アフリカから来た狙撃者事件の中で、(前作「白い雌ライオン」の中で述べられる)犯人のひとりを射殺したことで心を病み、一年半に渡り、職務から離れていた。最初は酒浸りの生活であったが、娘のリンダの説得により、酒を断ち、何とか立ち直りの足がかりをつかむ。時折、デンマークの海岸に滞在し、海岸を歩き回ることで、何とかトラウマから脱出しようとする。そして、最後に、彼は警察を辞めることにより、自分の新しい人生の再出発を計ろうと決意する。

デンマークの海岸で、独り人生のリハビリに努めるヴァランダーの元を、友人の弁護士、ステン・トルステンソンが訪れる。ステンは、交通事故として警察に処理された、同じく弁護士である父親の死に不審を持っていた。彼は父親の死の真相を、調べてくれるよう、ヴァランダーに頼む。しかし、警察を去ることを既に決心していたヴァランダーは、ステンの依頼を断る。

イスタドに戻ったヴァランダーは、新聞で、ステン・トルステンソンが、ヴァランダーを訪れた直後、事務所で何者かに射殺されたことを知る。その知らせによって、ヴァランダーの決心は覆る。イスタド警察署を訪れたヴァランダーは、辞表を撤回し、自分がステンの事件を捜査すると上司のビョルンに告げる。

 

ヴァランダーの警察への復帰は、同僚たちに歓迎される。ヴァランダーは、先ず、ステンの父親、グスタフの事故現場へと向かう。そこで、新たな証拠を彼は発見したヴァランダーは、老弁護士の死は事故ではなく、誰かに殺されたものであることを確信する。

ヴァランダーは亡くなった親子の弁護士事務所の秘書、デュネール夫人を訪れる。彼女は父親の弁護士が、亡くなる数ヶ月前から何かに怯えていて、落ち着きがなかったと証言する。また、殺された夜、老弁護士が、ファルンハイム城の顧客を訪問していたと証言する。 

 ヴァランダーは、更に、ファルンハイム城を訪れる。何重にも警護された要塞のようなその城の主は、アルフレッド・ハーダーベルクという男であった。ヴァランダーは世界を駆け回ってビジネスをするその男に会うことはできなかった。秘書にできるだけ早く主人に会いたいと告げて城を離れる。

数日後、ヴァランダーはデュネール婦人から緊急の電話を受ける。彼女の家に駆けつけると、庭に地雷がしかけられていた。ヴァランダーは、弁護士事務所にかかわる何者かが、秘密が公にされるのを恐れて、次々と殺人を働いていることを確信する。

 弁護士事務所から、二通の脅迫状が発見される。脅迫状は、ラルス・ボルマンという男が、一年前に廃業したあるホテルの封筒を使って投函していた。ヴァランダーとアン・ブリット・ヘグルンドは、そのホテルの元経営者を訪れる。ヴァランダーは、ボルマンという男が郡に勤める会計監査官であり、その直後に、森の中で首を吊った遺体で発見されたことを知る。ヴァランダーはボルマンが殺された弁護士と同じく、何者かの秘密、知ってはならないことを知ってしまい、口封じのために殺されたのではないかと推理をする。

ホテルの経営者を訪れる道で、ヴァランダーは自分の車が何者かに尾行されていることを察知する。帰り道、ヴァランダーの車に仕掛けられた爆発物で車は炎上するが、異常に気づいたヴァランダーとアン・ブリットは、直前に車から脱出し、難を逃れる。いよいよ、ヴァランダー自身も、見知らぬ犯人の標的となったのである。

 ボルマンの元上司を訪ねたヴァランダーは、コンサルタント会社に、郡の金を騙し取られるというスキャンダルがあり、それを、ボルマンが、殺される直前に察知していたことを知る。ボルマンがその口封じのために殺されたという確信を、ヴァランダーはいよいよ強める。

 ヴァランダーはファルンハイム城の主、アルフレッド・ハーダーベルクと会う。スウェーデンの片田舎から一代で財をなし、スウェーデン実業界の重要人物のひとりである、この微笑を絶やさない男こそが、今回の事件の陰の首謀者であることを、ヴァランダーは見抜く。アン・ブリットの調査により、郡から多額の金を騙し取ったコンサルタント会社の影のオーナーが、ハーダーベルクであることが判明する。ヴァランダーはハーダーベルクを徹底的に洗うことを捜査方針とする。

 しかし、ハーダーベルクは実に抜け目のない男であった。捜査班はなかなか確固たる証拠をつかまえることができない。署長のビョルクは、地元の名士であるハーダーベルクの犯行に疑問を持ち、検察官のペア・アキソンも、クリスマスまでに、ハーダーベルクの身辺に証拠が見出せないときは、他の捜査方針を取るように圧力をかける。ヴァランダーは焦り、例によって自分の捜査方針について悩む。

 そんなとき、膠着状態を破る自体が発生する。城の中から内通者が出たのだ。ひとりは元警察官で、現在は城の守衛をしているシュトレームという男。もう一人は、ヴァランダーの友人であり馬の調教師のステン・ヴィデンを通じて馬の世話係として送り込んだ女性であった。

 シュトレームは約束の時間に現れない。内通が発覚し、シュトレームが殺されたと悟ったヴァランダーは、アン・ブリットと城に向かう。そして、彼女を城外に残し、単身城に忍び込む。

 

 

<感想など>

 

 冒頭で、シーズンオフで人影のないデンマークの海岸を、何かに憑かれたように、歩き回る男が目撃される。これがヴァランダーである。

 前作「白い雌ライオン」で、一九九二年の初夏に、ヴァランダーは犯人のひとりを射殺し、もうひとりの犯人が、車で逃亡中に事故で焼死するのを目撃する。自らの手で人を殺してしまったことにより、ヴァランダーは、その後、極度のうつ状態に陥る。そして、一年半の間、ヴァランダーは休職するのである。その間の描写はすさまじい。気分転換のために、カリブ海の島での休暇を企てるが、朝から酒浸りの日々を過ごす。海に入ったのは一度だけ。それも、酒に酔って桟橋から海に転落したからである。その土地で、彼は地元の売春婦の家に転がり込み、有り金を全て取られた後、家から叩き出される。

 ヴァランダーは何度も修羅場をくぐり、残虐な死を何度も目撃している人間である。「リガの犬たち」では、周囲の人間が大量の虐殺の真只中に身を置いた。そんな彼でも、自らの手で人を殺すと(たとえそれが、正当防衛でも)それほど大きな衝撃で、心に傷を残すものなのかと、不思議な気がした。 

しかし、酒浸りの日々も娘リンダの忠告で何とか歯止めがかかる。彼はデンマークの海岸で、自分なりのリハビリを始める。その結果辿り着いた、警察官を辞めるという決心も、彼を頼り、その依頼を断った、友人の弁護士、ステン・トルステンソン死によって覆る。ヴァランダーは警察に戻り、捜査の指揮を執る。しかし、捜査の途中で、デンマークの海岸を宛てもなく歩く自分の姿が、何度も彼の頭に浮かぶのである。しかし、それは、いつしか過去のものになっていく。

 

 今回も、ヴァランダーの捜査方法は一貫している。「言葉に言い表せない『感じ』をおろそかにしてはいけない」という点である。つまり、「何かおかしい」という直感を大切にし、その原因をとことん分析していくことである。

 警察学校を出て、イスタド警察署に配属されたばかりのアン・ブリット・ヘグルンドに対して、ヴァランダーは以下のように語る。(85ページ)

 

「『何か分かったかい。』

ヴァランダーは尋ねた。

『少しずつだけど。』

彼女は答える。

『ふたりの弁護士の死について、何かがおかしいという感じがしてならないの。』

『俺も全く同感だ。どうしてそう思うの。』

『分からない。』

『明日の朝その点について話をしよう。俺の経験から言うと、言葉にならないことでも、決しておろそかにしてはいけない。』」

 

誰もが見過ごしてしまう点から、ヴァランダーが捜査のヒントを見つけ出すひとつの例として、交通事故として処理された老弁護士の死の後、その秘書と会話をする場面が挙げられる。(52ページ)

 

「『全てが急ぎでした。』

秘書は言った。

『父親が二週間前に殺された後なので、息子さんはもちろん、測り知れないくらいの、恐ろしい量の仕事をかかえていましたから。』

ヴァランダーは少し面食らった。

『今、父親が殺されたって、おっしゃいましたよね。どうして、そんな言葉を選ばれたのかと不思議に思ったのですが。』

『人は自分で死ぬか、殺されるかのどちらかです。きれいな言葉で言えば、人はベッドの中で自然に死んでいく。でも、交通事故で死ぬのは殺されたって言ってもいいですよね。』」

 

しかし、ヴァランダーはこの会話から、秘書自身が、無意識のうちに、老弁護士の死は他殺である可能性を持っていることを感知するのである。

 

 ヴァランダーの同僚として、アン・ブリット・ヘグルンドが登場する。警察学校を優秀な成績で卒業した、イスタド警察署捜査課にとっては初めての女性刑事である。優秀な女性の出現に、皆何となく遠慮をし、疑心暗鬼をおこし、ヴァランダーの同僚、ハンソンなどは研修にかこつけて職場に出て来ない。アン・ブリットに対する、嫌がらせもある。女性の社会進出の先進国スウェーデンでさえ、女性の職場進出に対する男性の反応がこんなものなのかと、私は少々驚いた。

ともかく、ヴァランダーは彼女の刑事としての素質を見抜く。彼女に推理や捜査方針を話すことにより、自分の考えをより論理的に整理できると考える。ヴァランダーは今回、彼女を主なパートナーとして選んでいる。

人に話すことにより、自分の考えをまとめるというのは、私もよくやる手であるが、そのときには聞き役が大切であることは言うまでもない。そう言う意味ではアン・ブリットはヴァランダーにとって、最高の聞き役なのであろう。

彼女は美人として描かれている。牧師になろうとしていたが、強姦されてから警察官を目指したという過去もちらりと語られる。

 

ストーリーの展開について。ファルンハイム城に住む「微笑む男」が黒幕であることは最初から読者に示めされている。殺されたグスタフ・トルステンソンがその冒頭で犯人を暗示している。

「あれは一月の半ばだった。その日は、バルト海から強風が吹きつけ、何時雪になってもおかしくなかった。濃紺のスーツを着て日焼けした男が彼に向かってやって来た。五十歳になるかならないかくらいの男であった。一月の天気にも、イスタドにも何か不似合いな男だと彼は思った。日焼けした顔に似合わない微笑を浮かべた男、この土地の人間ではいと彼は思った。」(9ページ)

 

次は、ヴァランダーが始めて城の主に会ったときの印象である。

「『警察への協力は惜しみません。』

彼は、人を安心させる声を持っているとヴァランダーは思った。ふたりは握手をした。ハーダーベルクは体にぴったりと合った、いかにも高そうな縞の背広を着ていた。ヴァランダーの最初の印象は、着るものや立ち居振る舞いを通じて、この男の完璧さが外に向かって誇示されているということだった。そして、この微笑。それは彼の顔から常に離れることのないように思えた。」

この時点で、もう、この微笑む男が犯人であることは間違いない。読者はヴァランダーと犯人との距離が、どのように縮んでいくかを追うわけである。

しかし、中盤から後半にかけて、犯人の目星がついてから、ストーリーは遅々として進まない。残り三十ページほどなのに、どうなるのかと、心配になり、焦ってくるほどである。まあ、心配しなくても、最後にはきっちりと型がつくのではあるが。

最後は例によって、ヴァランダーの単独行、大立ち回りの見せ場が作られるのである。その点、マンケルの作品はテレビ向きだと感じることが多い。

 

今回、金儲けのため、事業の拡大のためなら、人殺しも厭わない人間が現れる。このような人間を見たり聞いたりするたびに私は次のように思ってしまう。「金を持って死ぬことはできないのに、どうして」と。いくら稼いでも、人間の使うことのできる金なんてたかが知れている。金は持って死ねない。結局散逸するか、他人のものになるのである。使うことの出来る以上の金を持つことは、全く無意味である気がするのだが。

ヴァランダーの記憶の中にある「絹の服を着た騎士」が登場する。金持ちの洒落者と言う意味であろうか。彼がまだ子供の頃、派手な背広を着て、アメリカ式のオープンカーに乗って、彼の父親の絵を買い付けに来る男たちを彼はそう名付けていた。ヴァランダーは、彼らに反発や嫉妬と供に、一種の憧れを感じていた。ヴァランダーが、城の主の前に立ったとき、まさに、子供の頃のこの感情が呼び起こされるのである。

 

最後に、ヴァランダーの師であり数年前に亡くなったリュドベルクの言葉を挙げておこう。「生きることも、死ぬことも、全てそれなりの潮時がある。」