「防火壁」

原題:Brandvägg

ドイツ語題:Brandmauer

1998

 

 

<はじめに>

 

 いよいよ、クルト・ヴァランダーシリーズの最後の長編、八冊目に辿り着いた。(忙しい仕事の合間にこつこつと読んでいたので、本当に『辿り着いた』と言うのが実感。)

マンケルは最新の社会情勢を作品の中に取り入れることが巧みである。今回は、コンピューター犯罪を扱っている。書かれた時点から既に六年が経ち、その間にコンピューターの技術も格段に進歩を遂げている。また、私もコンピューター技術者の端くれである。二〇〇四年の現在、専門家の目から見ると、かなりおかしな筋立てではある。しかし、先駆的な作品なので、そこを突くことはやめておこう。

 マンケルはこの作品で、幾つかの新しい試みをしている。ただ、それらが完全に成功しているとは言い難い。

ともかく、今私は八冊を読み終えた、達成感と疲労感に包まれながら、この文を書いている。

 

<ストーリー>

 

一九九七年十月六日の深夜、イスタド。ショッピングセンターの現金引出機の前で、コンピューター技術者のテュネス・ファルクが死亡しているのが発見される。彼は残高照会の紙を握り締めたまま死んでいた。イスタド警察は、彼の死を、心臓発作による自然死として処理しようとする。

その頃、イスタドの町では、これまでの常識では考えられない事件が起こっていた。十九歳のソニア・ヘクベルクと十四歳のエマ・ペルソンという二人の少女が、タクシーの運転手をナイフとハンマーで襲い、殺害したのである。ヴァランダーはふたりの少女を尋問する。そして、ふたりに罪の意識が見られないことに驚く。少女のひとり、年上のソニアは、付き添いの警察官の隙を見て警察署から逃亡、行方不明となる。

十月七日の夜、イスタドを含むショーネ地方一帯が大規模な停電に見舞われる。原因は、イスタド近郊にある変電所での異変であった。変電所に駆けつけた職員は、変電所の門が破られているのを発見する。更に、建物の中で、感電して黒焦げになった死体を発見する。送電が停止はその死体であった。そして、死体は、警察から逃亡した少女、ソニアのものであった。

奇妙な事件は続く。現金引出機の前で死んでいた、ファルクの死体が、病院の死体安置所から持ち去られる。死体のあった場所には、代わりに、事故のあった変電所から盗まれたリレーが置かれていた。まるで、停電、ソニアの死とファルクの関係を暗示するかのように。ファルクの死体は、数日後に再び、現金引出機の前で発見される。しかし、死体からは両手の指が切断されていた。

ヴァランダーはファルクが事件の鍵を握ると考え、夜、独りで彼のアパートに出向く。翌日、再びファルクのアパートに居たところ、ドアのベルが鳴る。ドアを開けたヴァランダーを何者かがピストルで撃つ。とっさに身を投げ出したヴァランダーは、危ういところで助かる。

ファルクは住居としてのアパートの他に、仕事場としてもう一部屋を借りていた。その部屋の中にはコンピューターが置かれていた。そのコンピューターの中に一連の事件の謎が隠されていると読んだヴァランダーは、コンピューターの天才青年、(実はハッカーとして米政府のペンタゴンに進入して実刑判決を食らい、刑務所から出たばかりの)ロベルト・モディンの協力を得て、ファルクのコンピューターの中身を解読しようとする。しかし、それは幾つもの防火壁、ファイアーウォールに守られた極めて堅固なシステムであった。ロベルトは、ファルクのシステムの中で「二十」という数が、重大な意味を持つことを発見する。しかし、それが何を表すものかは分からない。

ファルクは離婚していた。元の妻が、ファルクの遺品の中から、一冊のアルバムを見つけ出す。そのアルバムには、彼が結婚する前に、アフリカのアンゴラで撮った写真が収められていた。また、ヴァランダーはファルクの仕事場から、同じくアンゴラのルアンダから出された絵葉書を発見する。差出人として「C」とだけ署名されていた。ヴァランダーは、事件がアンゴラとも関係することを予感する。

奇妙な事件は更に続く。ソニアの元ボーイフレンド、ヨナス・ルンダールも謎の失踪をする。そして、彼は、数日後、ポーランド行きのフェリーの機械室で、エンジンの歯車により切り刻まれた無残な姿で発見される。

ヴァランダーと警察は、次々と起こる奇妙な事件を互いに関係付けることができない。ヴァランダーは捜査を進める中で、正体不明のアジア人の男の姿が見え隠れする。二人の少女は、タクシー運転手を殺害する前、食堂でひとりのアジア人と出会っていた。また、捜査を続ける警察を監視する男もアジア人であった。ヴァランダーはそのアジア人に迫ろうと試みる。

 

舞台は変わってアンゴラ。元世界銀行職員カーターは、ファルクと共謀して、世界経済を混乱に陥れる計画を練る。ファルクのコンピューターの中には、世界経済の中心にあるコンピューターシステムの幾つかを攻撃するプログラムが仕組まれていた。ファルクの突然の死により、カーターはパートナーを失うが、彼は単独で計画を進める。十月二十日にその攻撃が開始されることになっていた。

カーターは、スウェーデンの警察が、ファルクのコンピューターを解析することにより、その計画に肉薄していることを知る。カーターは、アジア人の殺し屋フー・チェンをスウェーデンに送り、計画を邪魔するものを片付けるよう命じる。

 

困難な捜査を進めるヴァランダーに対して、更に新たな障害が発生していた。

タクシー運転手を襲った少女のひとりの取調べ中に、自分の母親を攻撃しようとした少女をヴァランダーが止めに入った。少女に平手打ちを食らわせているところを、たまたま警察署にまぎれこんだ新聞記者に写真を撮られてしまう。そして、その写真が、警察官の暴力行為の現場として、新聞紙上に掲載されたのである。オンブズマンによる内部捜査の間、警察はヴァランダーを職務停止にしようとする。

もうひとつは、同僚への不信感である。上司で署長のリサが、新聞写真の一件で、自分を疑っていることを知り、ヴァランダーは衝撃を覚える。また、これまで、彼に協力的だった同僚のマルティンソンも、ヴァランダーの陰で、彼の悪口をリサやアン・ブリットに告げて回っていることを知る。ヴァランダーは激怒する。

困難な立場に追い込まれたヴァランダーであるが、ひとつの心の安らぎを見つける。新聞の「交際欄」に応募したところ、マルメーに住むエルヴィラ・リンフェルトという女性が接触してくる。ヴァランダーはエルヴィラと会い、彼女と打ち解ける。話し相手ができたことを率直に喜ぶ。それさえも、彼の周りに巧妙に張り巡らされた罠だと知らずに・・・

 

<感想など>

 

これまで、マンケルの犯罪小説のパターンは、犯人の動きと、警察の動きが、平行して描写されていた。読者は犯人の動きを知りつつ、警察が犯人に肉薄していく様を体験することができた。つまり、読者には、犯人やその行動が明らかにされていることが多かった。換言すると読者には「筋」が見えていた。

今回の「防火壁」では、それがない。第二部の最初にカーターが登場するまで、読者は次々と起こる奇妙な出来事が、誰によるものか、何のためのものか知ることはできない。これはマンケルの新しい試みであろう。しかし、いくら次々と事件が起こると言っても、個々の事件がちょっと現実離れしすぎていて、飛躍した「筋」を追いかけていくのに苦労をする。

コンピューター犯罪という、新しい「ネタ」を取り入れようとする、マンケルの姿勢には敬意を表する。しかし、コンピューターの専門家のひとりとして見ると、カーターとファルクの計画は、少々非現実的でチャチな感じがする。コンピューターやそのプログラムに対する表現も、曖昧で、所々おかしく感じた。まあ、皆が専門家であるわけではないので、仕方がないことだが。

この作品がシリーズの最後のものであることを暗示するものが二つある。ひとつは、ヴァランダーの同僚の離反と、最後に語られる娘リンダの決心である。

これまで鉄壁のチームワークを誇ってきたヴァランダーの捜査班、ハンソン、マルティンソン、アン・ブリット、それに前作で亡くなったシュベトベルク、それに署長のリサ。彼らの関係に亀裂が生じる。今回、ヴァランダーが本当に信用しているのは唯一アン・ブリットのみ。部下を信用しきれないリサ、それに失望するヴァランダー。ヴァランダーの強引な捜査方法を陰で批判するマルティンソン、彼を殴りつけるヴァランダー。勤務時間に、競馬の予想と馬券の購入に忙しいハンソン。おそらく、彼らのチームワークはこれで終わりを告げ、この後は、彼らがそれぞれの道を歩んでいくのであろう。

「防火壁」それはコンピューターの中だけではない。自分の周りにもあると、ヴァランダーは感じる。目に見えない高い壁が、同僚との間に冴え聳え立っていたのである。

ヴァランダーの娘、リンダが、最後に自分も警察学校に入り、警官になると宣言する。時代の交代を感じさせる出来事である。しかし、彼女の決心は、これまで警察の殺人課の警視としてヴァランダーが歩んできた困難な道に対する、最高の報酬であると私は思った。

 

200410月)