ケネディーの脳

原題:Kennedys hjärne

ドイツ訳題:Kennedys Hirn

 

 

<はじめに>

 

 考えさせられるテーマを持った小説である。そう言った意味で、社会小説としては出色であろう。で、ミステリーとしては・・・事件、捜査、解決というパターンを全く踏んでいない小説。読み終わったとき、「ええ、これで終わってしまうの」という割り切れなさと、当惑が残った。

 

 

<ストーリー>

 

 主人公は、スウェーデン人の考古学者、ルイーゼ・カントア。五十四歳。彼女はギリシアで青銅器時代の遺跡を発掘している。彼女は過去にアーロンという男性と結婚、ヘンリクという名前の息子がいた。アーロンは彼女を捨て、家を出た後、行方不明になっていた。彼女は、学会に出席するためにスウェーデンに戻る。道中、ルイーゼは、ストックホルムに住む息子のヘンリクに何度も電話をかけようとするが、彼は電話を取らない。心配になったルイーゼは、学会での講演を済ませた後、ストックホルムのヘンリクのアパートを訪れる。ヘンリクはベッドの中で死んでいた。

ヘンリクは大量の睡眠薬を飲んでいた。警察は、ヘンリクの死を自殺として片付けようとする。しかし、ルイーゼは息子の死因に疑問を持つ。例えば、全裸で眠るヘンリクが、発見されたときに、パジャマを着ていたこと等。ヘンリクの死が他殺であると確信したルイーゼは、ひとり息子を失った虚脱感に苛まれながらも、息子を殺した犯人を見つけるという使命感にすがって生きようとする。

ルイーゼは、迎えにきた父アルツアと共に、故郷に戻る。父アルツアの本職は樵(きこり)であった。しかし、彼は木の幹に彫刻を施すアマチュア芸術家でもあった。ルイーゼの母は彼女が幼い頃に事故で死亡し、彼女は父によって育てられていた。ふたりの絆は強かった。

ルイーゼには、息子のヘンリクが死ぬ前に何かメッセージを残しているという予感がしていた。彼女は、それを確かめるために、再びストックホルムにあるヘンリクのアパートを訪ねる。そこで、ルイーゼは洋服箪笥の中に一冊のファイルを発見する。それは、一九六三年に暗殺された米国の大統領、JF・ケネディーの脳についてのものであった。暗殺された大統領の脳が、何者かによって持ち去られ、行方不明になっているという記録を、ヘンリクは丹念に集めていた。

ヘンリクのアパートを、ナツリンという若い女性が訪れる。彼女は、ヘンリクのガールフレンドであったと述べる。ヘンリクが死ぬ直前に何か変わったことがなかったかというルイーゼの質問に対して、ナツリンはヘンリクが死の三週間前に旅行から帰ってきてから、急に陽気になったこと、そのとき彼の靴に赤い土がこびりついていたことを思い出す。ルイーゼは、本棚の中から、エイズで死んでいく母親たちが死ぬ前に書いたノートを発見する。また、別れた夫アーロンが、ずっとヘンリクと連絡を取っていたことも知る。アーロンはオーストラリアから、息子に手紙を送っていた。

警察は捜査を打ち切り、ヘンリクはルイーゼの故郷に葬られる。ルイーゼは、ヘンリクの死を調べることを決意する。その第一番目は、別れた夫アーロンを探し出すこと。彼女はオーストラリアに向かう。

オーストラリアに着いたルイーゼは、スウェーデン人の事情通の老人の協力で、アーロンの居場所を探し出す。アーロンはアポロ・ベイという村で原始林の監視人をしていた。ふたりは再会する。アーロンはソフトウェアの開発で大金を得て、その大部分を自然保護団体に寄付、自分も自然保護の仕事をするようになっていた。

ヘンリクはアーロンに沢山の手紙を送っていた。その手紙によると、ヘンリクは何度かアフリカのモザンビークに立ち寄っているようであった。ルイーゼがヘンリクのコンピューターで見つけたデータのCDの中に、ヘンリクがバルセロナで部屋を借りているという証拠を発見する。ルイーゼは、アーロンに一緒にバルセロナへ来てくれるように頼む。アーロンもそれを承諾して、ふたりはバルセロナへ向かう。

 

ルイーゼとアーロンはバルセロナでヘンリクが借りていたアパートを訪れる。若い女性の管理人ブランカがふたりをアーロンの部屋に案内する。ルイーゼは、ブランカがヘンリクのことについて何かを隠していることを直感する。部屋の中にはコンピューターがあった。ルイーゼはその中でヘンリクが書いた短いメッセージは発見する。ヘンリクは、エイズに感染していたのだ。

アーロンはヘンリクの為に教会で祈ると言って、部屋を出て行く。そして、それきり行方をくらます。ルイーゼはアーロンもまた、ヘンリクと同じ理由で殺されたのではないかと疑う。ヘンリクはブランカに一通の封筒を渡していた。その中には、一枚の黒人女性の写真が入っていた。ブランカは数週間前、その写真の女性、ルシンダがヘンリクを訪れていたことを告げる。ルシンダの居所として、アフリカのモザンビークの首都、マプトにある店の名前が書かれていた。

ルイーゼは、バルセロナを発ち、単身モザンビークのマプトに向かう。そこは灼熱と貧困の町であった。ルイーゼは歓楽街の場末のバーで働いているルシンダを発見。ルイーゼはルシンダにヘンリクの死を告げる。その知らせはルシンダに大きな衝撃を与える。彼女はヘンリクがスウェーデン大使館で働く外交官のホカンソンという男と親交があり、時々彼の家に泊まっていたと話す。それを受けて、ルイーゼは大使館にホカンソンを訪れる。ホカンソンはヘンリクからスポーツバッグを預かっていた。その鞄の中には、赤い土と共に、ケネディーの死後検視資料が盗まれたことに対する報告書のコピーが入っていた。それは当時の副大統領ジョンソンの、事件への関与を示すものだった。

ルイーゼはホテルで、ルシンダの友人と名乗る、地元のジャーナリスト、ヌノ・デ・シルヴァの訪問を受ける。彼は、エイズが、アフリカ大陸から黒人を抹殺するために、米国の研究所で作られた病気であるという説があることを告げる。しかし、それを欧州のメディアに発表するにはまだまだ証拠が不十分であるとデ・シルヴァは述べる。

ホカンソンの誘いで、ホテルから彼の家に移ったルイーゼを、ルシンダが訪れる。ルシンダは車でルイーゼを連れ出す。乾ききった道を走った末、ルシンダがルイーゼを連れて行った場所は、カイカイという村にある、エイズ患者の施設であった。そこは、クリスティアン・ホロウェイという篤志家が、エイズの末期患者を収容するために作った施設。

ふたりは施設の中に入る。薄暗い粗末な建物の中には数多くの死を目の前にした患者が横たわっていた。ヘンリクはこの施設を訪れ、ボランティアとして、ここで働いていたことがあったのだ。ルシンダによると、この施設から戻ったヘンリクの行動はそれまでと明らかに違っていたという。自分の息子の運命を変えた何かが、この施設の中に隠されていることをルシンダは確信する。施設を案内されたふたりは、案内人が席をはずした際、ある部屋の扉を開ける。そこにはエイズで死んだ者たちの数多くの死体が累々と横たわっていた。

 

施設から、マプトに帰ったルイーゼに対して、ホカンソンは、カイカイにあるホロウェイの施設は、エイズ治療薬の開発のための人体実験のためのものであるという噂があることを伝える。ホカンソンのコンピューターの中に、ルイーゼは、ホロウェイを称えるヘンリクの自分宛のメールを発見する。しかし、それが、ヘンリクの手によるものでないことをルイーゼは直感する。

ルイーゼはヘンリクがマプト滞在中に、インカハという島を好んで訪れていたことをルシンダから聞く。ルイーゼはその島に向かう。ヘンリクはその島に住む画家、アデリンホを訪れていた。ルイーゼも彼を訪れ、話を聴く。アデリンホはベルギー領コンゴで生まれ育ったが、モザンビークに難民として逃れてきていた。彼がコンゴを離れなければならなくなったきっかけは、勤めていた製薬会社の研究所で、生きている黒人を使った実験を目撃したからであると、アデリンホはルイーゼに告げる。そして、そのような人体実験は、モザンビークにもあることを、アデリンホは暗示する。

モザンビークに戻ったルイーゼは、再びホロウェイの施設を今度は単身で訪れる。ひとりの患者がルイーゼに何かを訴えようとする。その男は、顔に恐怖の表情を浮かべ「注射」と言おうとしていた。翌日、ルイーゼが訪れたとき、その男はその場所から消えていた。

ルイーゼはホテルで年配の白人男性に話しかけられる。彼が施設のオーナーであるクリスティアン・ホロウェイであった。彼はルイーゼを自分の家に招待する。息子の死について述べるルイーゼに対して、ホロウェイも自分の息子が自殺したことを告げる。ロサンゼルスに住む、彼の息子は、ある日突然、水を抜いたプールに、飛び込み台から身を投げて死んだのであった。

ホテルに帰ったルイーゼ、今度はひとりの黒人の男の訪問を受ける。彼はホロウェイの施設に収容されている患者のひとりであった。ウンビと名乗るその男は、自分たちは村から仕事をやると言って狩り集められ、実際はこの施設に送られ、エイズウィルスを注射され、人体実験に使われていると述べる。その男は、ルイーゼの目の前で、闇の中に潜んでいた何者かによって殺される。

次に殺されるのが自分ではないかと、恐怖に駆られたルイーゼは、マプトに戻る。ルイーゼはルシンダを訪ねる。ルシンダはヘンリクにうつされたためにエイズに罹っていることを告白する。ルイーゼはヘンリクがコンピューターに残した記事より、ホロウェイの息子の死がヘンリクと関係のあることを知る。おそらく、ヘンリクが、父親の所業をネタに、彼の息子を脅迫したのではないかと。

ホカンソンの家に戻ったルイーゼは、彼の手帳を隠れ見て、ホカンソンがホロウェイと通じていることを知る。身の危険を感じたルイーゼは、ホカンソンの家を去り、空港に向かい、モザンビークを離れる。

ルイーゼは一度仕事場のあるギリシアに戻るが、そこにも、誰かが既に自分を探すために訪れていたことを知る。追っ手が迫っていると感じた彼女は、スウェーデンの故郷に戻り、父親の元に身を寄せる。ある夜、ルイーゼはルシンダから電話を受ける。ルシンダはルイーゼに、自分の命がもう長くないことを告げ、すぐにモザンビークに来てくれるように頼む。ルイーゼはルシンダのために、再びアフリカに向かう。

 

 

<感想など>

 

ルイーゼは考古学者である。これには物語の中で、大きな意味を持つ。考古学者の仕事、それは掘り出すこと、そして、掘り出した破片をつなぎ合わせ、それがどのような形をしていたか、復元する作業である。ルイーゼは、スウェーデン、スペイン、アフリカと、死んだ息子の足跡を追い、その死因を探っていく。そこには、ヘンリク自身が残したもの、あるいは彼と関係のあった人たちによるもの、いずれにせよ断片しか残されていない。その断片をつなぎ合わせて、過去を再構築し、ストーリーにまとめていく、その作業はまさに考古学者のそれである。

ルイーゼは、ストックホルムのヘンリクのアパートで、ケネディー大統領の脳についての資料を発見しそれを読んだ後、次のように思う。

何故、息子はそれほど熱心に四十年以上前にケネディーという名のアメリカ大統領に起こった出来事を調べていたのだろう。彼は何を探していたのか。何がそこに隠されていたのか。どうしたら、他の人間が探していたことを、もうひとりの人間が探しだすことができるのか。それはまさにルイーゼがこれまで人生をつぎ込んできた古代ギリシアの多くの壊れた壷に似ていた。整理されていない破片の山。それからひとつの壷を組み立てていく。何千年も経ってさえ、灰の中からよみがえる不死鳥のように。それには知ることと忍耐が必要だ・・・(56ページ)

 

今、アフリカで何が起こっているのか、それを知らせることが、この本の使命であると思う。主人公のルイーゼ自身も、アフリカには殆ど予備知識がない。しかし、彼の息子ヘンリクは、アフリカとアフリカ人に対して理解を示していた。モザンビークで彼の友人、あるいは事実上の「妻」であったルイーゼは、ヘンリクだけはアフリカ人に対して、他の白人たちと違う行動を取ったと話している。ヘンリクが残した言葉にこんなものがある。これが、マンケルの一番訴えたいことなのではないかと私は思う。

 

我々ヨーロッパ人は、アフリカ人がどのように死んでいくかは知っている。しかし、彼らがどのように生きているかは知らない。(372ページ他)

 

現在、アフリカのニュースとしてヨーロッパに伝えられるのは、戦乱、飢餓、災害等、死んでいく人間に関することばかりである。確かに、普通の人間が、アフリカでどのように暮らしているのかという情報は極端に少ないようだ。

 

夫と離婚し、息子をなくしたルイーゼの心の拠り所は、スウェーデンの森に住む、父親のアルツアである。アフリカから携帯を使って、ルイーゼは度々父親に連絡を取る。寡黙で、けっしてでしゃばらず、質実剛健という感じのアルツアには好感が持てる。

私が気に入ったのは、暑い国アフリカと寒い国スウェーデンの間を駆け抜ける会話である。片方では乾ききった土地に土埃が舞い、一方では雪が降っている。ルイーゼはアフリカで度々故郷と父の夢を見る。色で両者を対比すると、スウェーデンは白、もちろん雪の色である。アフリカは赤。土の色。ナツリンはルイーゼに対して、ヘンリクが旅から戻ったとき、靴に「赤い土」がこびりついていたと述べる。これが、ヘンリクとアフリカの結びつきの最初に暗示する。

 

「ケネディーの脳」というタイトル、もちろん、これはルイーゼがストックホルムのヘンリクのアパートで発見したファイルの内容による。ケネディー大統領は殺された後、解剖に回されたが、その際、脳だけが行方不明になったという。そして、その事件には、副大統領であり、ケネディーの死後大統領に就任するジョンソンが絡んでいた。

しかし、最期まで読んでみると、このケネディーの脳は、ストーリーの本質とは何の関係のないことが分かる。何故、ヘンリクは、消え去ったケネディーの脳についての資料を集めていたのであろうか。本文中に暗示があるが、おそらく、彼は「国家権力がいかに事実を隠匿するか」のテクニックに興味があったのであろう。過去にある秘密がどのように隠されたかを調べることにより、現在別の秘密が隠されているその方法と、それをいかに暴き出せばよいのかを、調べていたに違いない。その「別の秘密」とは、単にホロウェイの施設の人体実験のことだけなのか、それとも、シルヴァが述べたように、「エイズウィルスはアフリカ人を絶滅させるために米国が開発したもの」ということなのか、それは分からないが。

 

ルイーゼはヘンリクの死ぬ前、数ヶ月間に彼の周囲に起こった出来事を再構築しようとする。しかし、ヘンリクはコンピューターや手紙の中にほんのわずかな情報しか残していない。ヘンリクについての情報を提供するのは主に三人の女性、ストックホルムのナツリン、バルセロナのブランカ、マプトのルシンダである。ヘンリクはこの三人と、それぞれ性的な関係を持っていたことが書かれている。彼は地球上の三箇所に住居を持ち、それぞれに愛人を持っていたことになる。しかし、何故ヘンリクがバルセロナに住む必要があったのか、その必然性が、結局私には最後まで謎のままであった。

 

ミステリーとして読むと、最後に少し欲求不満が残るが、アフリカとエイズの現状を知ることができたという点では、良い本であった。ルイーゼ、アルツア、ルシンダ等の口から語られる言葉になかなか鋭いものがある。例えば「歳をとると夢が白黒になる」などという一文には、時々ドキッとさせられた。

マンケルの小説は、ひとつの文が本当に短い。そして、その短い文がそれぞれ切れ味を持っている。サーカスのナイフ投げのように、鋭い文章が次々と飛んで来るのを迎え撃っている気分。読んでいてスリルを感じる。

 

20068月)