「陰にいる敵」

原題:Den orolige Mannen (不安に駆られた男)

ドイツ語題:Der Feind im Schatten (陰にいる敵)

英語題:The Troubled Man (不安に駆られた男)

2009年)

 

 

<はじめに>

 

一九九一年以来二十年に渡って書かれてきた「クルト・ヴァランダー」シリーズも、これで最終作である。私は、前作の「ピラミッド、ヴァランダー最初の事件」が出版されてから、もうこのヴァランダーが主人公になる本は出ないものだと思っていた。それで、更にこの本が出たときには驚いた。読んでみて、今度こそ、これが最後の本だと知った。

 

 

<ストーリー>

 

 一九八三年早春、スウェーデン国会議事堂内の自室で、首相オロフ・パルメは激怒していた。彼は前年の総選挙に勝ち再び首相の座についたばかり。彼の前には同じく前年の一九八二年に起こった国籍不明潜水艦の領海侵犯事件の報告書がおかれていた。それは、国防大臣のスヴェン・アンダーソンの書いたものであった。ことごとく自分を無視して行動するアンダーソンを、パルメは許すことができなかった。しかし、内閣のバランス上、アンダーソンを外すこともできない。パルメの怒りを知る者は、廊下を通りかかった用務員だけであった。

 

 二〇〇三年、五十五歳になったクルト・ヴァランダーはそれまで住んでいたイスタド市内のアパートを売り払い、海を見下ろす丘の上に立つ古い農家を買い取り、そこに移り住む。モナと離婚して既に十五年が経っていた。彼は年齢が進むにつれ、自分が父親に似てきていることを感じていた。彼はユッシという名の犬と暮らし始める。糖尿病である彼は、毎日血糖値を測り、自分でインシュリンを注射することを余儀なくされていた。

 ヴァランダーが農家に住みだして四年後の二〇〇七年の春、娘のリンダが電話で至急会いたいと言ってくる。彼等は海岸で会う。同じくイスタド警察署に勤めるリンダは三十六歳になっていた。リンダはヴァランダーに、自分が妊娠していること、父親はハンス・フォン・エンケという、コペンハーゲンで働く金融ブローカーであることを告げる。

 二〇〇七年八月、リンダは女の子を産んだ。ヴァランダーは初めて祖父になった。ハンス・フォン・エンケは金回りが良く、ふたりは大きな家を買う。そこでヴァランダーはハンスの両親と初めて出会った。ハンスの父ホカンは引退した海軍軍人、母のルイーゼは語学の教師をしていた。ヴァランダーはふたりと打ち解けることができた。

 ヴァランダーの逮捕した殺人事件の犯人が裁判にかけられ、懲役八年を言い渡される。残忍な罪を犯した人間が、わずか八年しか服役しないことに対して、ヴァランダーは無力感と空虚感を覚える。彼はイスタドの町のレストランへ行き酒を飲む。翌日出勤したヴァランダーは、自分がピストルをレストランに置き忘れたことに気付く。彼はその不祥事のために、上司より、一週間の自宅待機を言い渡される。

 ヴァランダーは自分の犯したミスが信じられない。彼は時々自分の中に黒く覆いかぶさるような陰があることを感じていた。娘のリンダは父親が働きすぎであること、また余りに孤独な生活をしていることを案じ、気分転換にストックホルムで行われるホカン・フォン・エンテの七十五歳の誕生日に来ないかと誘う。ヴァランダーも娘のアイデアに同意する。

 海軍軍人であったホカン・フォン・エンテの誕生日のパーティーは、多数の元同僚や友人を招いて盛大に行われた。パーティーの途中、ホカンはヴァランダーを窓のない小さな一室に誘う。そこで、ホカンは自分が潜水艦の指令本部で働いていたときのことを話す。

一九八二年、スウェーデン海軍の演習が行われた。当時はまだ冷戦の名残のある時代、バルト海では西側と東側の海軍力が拮抗し、互いに探り合っている時代であった。そのとき、国籍不明の潜水艦が、スウェーデンの領海に深く侵入する。スウェーデン海軍はその潜水艦を湾の奥に追い込み、まさに攻撃を加えようする。しかし、攻撃開始の直前、攻撃中止の命令が最上層部から発せられ、その潜水艦は逃れ去る。ホカンはその命令が誰によって、何のために発せられたのかを解明しようとしたが、上司から納得のいく説明は得られなかった。 

話をしているホカンは、常に誰かを恐れ、不安に駆られているように見えた。突然ドアが開く。ホカンは胸ポケットからピストルを取り出す。ヴァランダーの不安に只ならぬものを感じ、彼が何故、自分にそんな話を始めたのか、いぶかしく思う。

ホカンとヴァランダーが話をした三ヵ月後、ホカンが散歩の途中で、突然行方不明になった。腕の骨を折り仕事を休んでいたヴァランダーはその知らせを受けてストックホルムへ向かう。ホカンの妻、ルイーゼの依頼で、ヴァランダーは私的に調査を開始する。しかし、ホカンの突然の失踪を予告するようなものは何も見つからない。ルイーゼはホカンが殺されたのではないかと言う。ヴァランダーも、ホカンが身の危険を感じていて、誕生日の夜、自分何かのメッセージを伝えようとしたのではないかと思う。

ヴァランダーはホカンの友人、ステン・ノーランダーと会う。ノーランダーもかつて海軍軍人で、一九八二年の国籍不明の潜水艦の追跡行動に参加していた。ノーランダーはホカンが潜水艦の逃亡を許した人物を追求し、ついには当時の首相オロフ・パルメにまで会っていたことを告げる。しかし、結局誰からも納得の行く説明は得られず、ホカンは海軍内で干されてしまうことになったという。

ヴァランダーは更に、ホカン失踪事件を担当する刑事イターベリに会う。イターベリは、日中に街を歩いていたホカンを見たという目撃者が誰一人いないことを不自然だと述べる。また、ホカンはパスポートも金も持っていなかった。ホカンの失踪について、何のヒントも得られないまま、ヴァランダーはイスタドに戻る。

イスタドに戻ったヴァランダーをスティーブン・アトキンスというアメリカ人が訪れる。彼はホカンと昔からの友人、ホカンとルイーゼは十回以上、アメリカのアトキンス夫妻を訪ねたことがあるという。アトキンスは、ホカンとルイーゼに女の子がいると言う。これまで、誰もがホカンには一人息子がいるだけと信じていた。

ホカンに続いて、妻のルイーゼも行方不明となる。家政婦が訪れると、ルイーゼは姿を消していた。ヴァランダーは休暇を取り、ホカンとルイーゼの足取りについて私的に捜査をすることを決心する。

ヴァランダーは、ハンスに、姉妹のいることを知っているか尋ねる。これまで自分は一人っ子であると信じていたハンスは衝撃を受ける。ステン・ノーランダーだけは、その娘の存在を知っていた。ハンスより十歳以上年上の娘は、生まれたときから障害があり、今は施設に住んでいると証言する。ヴァランダーがホカンの家を捜しても、娘の存在を暗示するようなものは何ひとつない。ヴァランダーはどうしてホカン夫妻が、娘の存在を隠していたのか不審に思う。

ヴァランダーはホカンとルイーゼの娘、シグネの収容されている施設を探し回る。そして、ついにその施設を見つけ、そこを訪ねる。シグネは一九六七年生まれで四十一歳であった。ホカンは、行方不明になるまで、定期的に重度の障害を持つシグネを見舞っていた。しかし、妻のルイーゼは一度として来たことはなかったという。シグネを訪れたヴァランダーは、彼女の病室の本棚の奥から、ホカンの隠したファイルを発見し、持ち帰る。

ヴァランダーはホカンのファイルの中身を読む。それは、国籍不明の潜水艦に対する、ホカンの独自の調査の記録であった。ホカンは当時の資料を集められるだけ集め、それにコメントを書き綴っていた。そして、ホカンは彼なりに、潜水艦を逃がす決定をした人物に、見当をつけているようであった。ヴァランダーはその資料の中に、漁船とふたりの男が写っている写真をみつける。ヴァランダーは、その漁船の持ち主に会ってみようと思う。

ヴァランダーは写真に写っていた漁船の船体番号から持ち主を捜しだし、その男に電話をする。フォン・エンテを知っているかというヴァランダーの問いに、男は知らないと答える。その早すぎる答えに不審を感じたヴァランダーは、その男に会ってみることにする。

現在その船の持ち主であるルンドベリは、死んだ父親が生前、網にかかった鉄でできた円筒を引き上げたと述べる。そして、その後、スウェーデン海軍が、辺りをくまなく捜索していたと述べる。おそらく、海軍はその円筒を捜していたのかも。その円筒は今も残っていた。ヴァランダーはその円筒をイスタドに持ち帰る。

ヴァランダーがイスタドに戻ると、別れた妻、モナが彼を待っていた。モナはアルコール中毒で、感情の起伏が激しい。モナは一晩泊まっただけで、翌朝ヴァランダーの家を去る。ヴァランダーはリンダとハンスを呼んで夏至のパーティーを開く。そこに再びモナも招待される。しかし、最後はヴァランダーとモナが口論を始め、怒ったモナは立ち去る。

海軍の本を見ているうちに、ヴァランダーはアメリカの潜水艦の写真に、自分が持ち帰ったのと同じ円筒が写っているのを発見する。それは、どうやら、海底ケーブルに取り付ける盗聴装置のようであった。ヴァランダーはステン・ノーランダーに電話をし、その円筒を一度見てくれるように依頼する。訪れたノーランダーは、それが盗聴装置であることを確認する。ノーランダーが去った後、ヴァランダーはインシュリンのショックで倒れる。しかし、電話に出ない父親を心配してかけつけたリンダに発見され、ことなきを得る。

ルイーゼの死体が森の中で発見される。彼女は大量の睡眠薬を飲んでいた。争った痕跡、外傷もないところから、警察は自殺として片付けようとする。しかし、リンダは、ルイーゼの性格からして、自殺はありえないと断言する。ヴァランダーはルイーゼの死体の発見された場所を訪れる。彼も、ルイーゼは他殺ではないかと疑い始める。ルイーゼのハンドバッグは二重底になっており、そこからロシア語の文書が撮影されたマイクロフィルムが発見される。ルイーゼはスパイだったのか。

ヴァランダーは東ドイツからの亡命者であるエバーを訪れる。エバーはかつて東独の秘密警察の一員であった。エバーは東独秘密警察が暗殺用に、睡眠薬自殺と見分けのつかない薬品を開発していたこと、今度のルイーゼの死にもその薬品が使われた可能性の強いことを示唆する。

そこまで来て、ヴァランダーは、自分が何か大切なことを見落としている、何か根本的な思い違いをしている気がしてならなかった。リンダは父親に、ホカンとルイーゼはかなりの大金を持ち、その運用を息子のハンスに任せていること、またルイーゼが飛び込みのコーチとして、頻繁にスウェーデンと東独を行き来していたことを話す。ヴァランダーは、ホカンとルイーゼの過去を洗い出そうとする。海軍クラブに出入りしていた共産党員のウェートレスは、ホカンは政治には関わりを持たないタイプの軍人であったと証言する。

ヴァランダーの前に、バイバが現れる。彼女は、ヴァランダーが捜査でリトアニアのリガを訪れた際、警察官である夫を殺され、その後ヴァランダーと恋に落ちた相手であった。痩せて憔悴した様子のバイバは、自分が癌に侵され、死期が近いこと、死ぬ前にもう一度会いたい人間を訪れていることを話す。ヴァランダーはリンダを呼び寄せる。バイバとリンダがその時初めて顔を合わせたのであった。バイバは一晩ヴァランダーの家に泊まっただけで、翌朝秘かに出発し、イスタドからポーランド行きのフェリーで帰途に着く。

数日後、リンダがヴァランダーを訪れる。リンダはマドンナのコンサートのためにコペンハーゲンに行っていた。そして、そこでホカンを見かけたという。ホカンは生きていたのだ。リンダの夫ハンスはコペンハーゲンで働いているが、自分が父親とコンタクトしていたことを否定する。ヴァランダーは、ホカンの失踪を助けた人間、組織があることを確信する。

ヴァランダーにバイバが死亡したという知らせが入る。彼女は、ポーランドでフェリーを降りてから、車を運転してリガに向かう途中、交通事故で死亡したという。ヴァランダーは葬儀に参列するためにリガに向かう。ヴァランダーはそこでバイバの娘に会う。ヴァランダーは葬儀の前から酒を飲み、葬儀の後、逃げるように飛行機に乗り、スウェーデンに戻る。

ヴァランダーは、ホカンの隠れている場所に、ある種の確信を抱き始める。彼は、北へ向かい、とある海辺の街でモーターボートを借りる。ヴァランダーは夜の闇に紛れ、ひとつの小さな島に近付き上陸する。そして、その島に建つ小屋の中でホカンを発見する。その島は、円筒形の盗聴器が見つかった海域のすぐ近くにあるものであった。

ホカンは、ヴァランダーに自分が身を隠した事情を話す。一九七〇年代の終り頃、ホカンは自分が家に持ち帰って金庫に入れておいた軍の機密書類を誰かが読んだ形跡あるのを発見する。それができるのはルイーゼだけではと、ホカンは考える。ホカンは妻が東側のスパイとして活動をしているのではないかと疑う。その疑いを明らかにするために、ホカンは罠を張る。軍事演習も前に彼は、偽造した計画書を家に持ち帰る。そして、東側の監視船がその誤った情報に基づいて行動していることを確認する。情報が、彼の家から妻を通じて漏れていることをホカンは確信する。その頃、海軍内にソ連のスパイがいること、またスパイが女性であるという噂が広まっていた。彼は、妻がそのスパイであると確信する。彼は妻に問い質すが、ルイーゼは知らないと言い張る。

ホカンが身近にいるスパイの存在に気付いてから、彼は誰かに尾行、監視されていると感じるようになる。その圧迫感がだんだんと高まり、身の危険を感じたホカンは、失踪を装って島へ来ることにより、その見知らぬ追跡者から逃れようとした。ホカンはルイーゼの死は自分とは関係なく、自分もルイーゼの失踪と死を知って愕然したひとりであると述べる。ヴァランダーはホカンの言葉を信じながらも、何かひっかかりを感じながら帰路につく。

ヴァランダーはホカンの隠れ家を誰にも口外しないことをホカンに約束し、息子のハンスと娘のリンダにも、ホカンが無事でいることだけを告げる。ヴァランダーは自分の同級生に「海軍オタク」の男がいることを思い出す。その男は死んでいたが、その妻が彼の集めた膨大な海軍に関係する資料を守っていた。ヴァランダーはその未亡人を訪ねて、ホカンの過去について調べる。ヴァランダーの目に、ホカンが海軍の視察団の一員として、米国を訪れたときの写真が目に止まった。ヴァランダーの心のひっかかりは、それにより大きくなる。

ヴァランダーはホカンより手紙を受け取る。ベルリンに住む米国人、元スウェーデン大使館員のジョージ・タルボットなる人物を紹介したいという。タルボットはCIAの一員であり、当時のスウェーデンの事情をよく知っており、ヴァランダーの情報収集と捜査に必ず役立つ人物であるとホカンは述べていた。ヴァランダーはベルリンにタルボットを訪れることにする。

ベルリンを訪れたヴァランダーにタルボットはスウェーデン海軍内部にいるスパイについての歴史を語る。スパイがいるという噂はずいぶん以前からあった。しかし、それが具体的な情報となったのは一九八七年、リンデというロシアのKGBのメンバーが西側に亡命したことによる。彼は、西側で活動しているロシアのスパイの名前を知っていたのだ。しかし、彼をもってしても、スウェーデン海軍内部のスパイの名を明らかにすることができなかった。

ヴァランダーはスウェーデンに戻る。彼は、娘と一緒にアル中の治療施設にいるかつての妻モナを訪れる。彼はベルリンから帰ってから、いよいよ何かが正しくない、大きな思い違いがあるという気持ちに囚われていた。そして、遂に彼はその気持ちを具体的なものにすることができた。彼は娘のリンダにも告げず、自分の疑問に終止符を打つべく、北へ車を走らせる・・・

 

 

<感想など>

 

 これでヴァランダー・シリーズも最終回である。ヴァランダーは、「還暦」を前にして、記憶が突然途切れるという症状に襲われる。自分が何故ここにいるのか分からない、自分が一体今何をしようとしているのか分からない、そんな状態にしばしば置かれる。彼はそんな状態に陥った中で、自分のピストルをレストランに置き忘れるという失態を犯す。娘のリンダは「働きすぎ」だと言う。彼は医者を訪れるが、加齢によるものだと言われる。記憶が途切れるという症状以外にも、「老い」の症状がヴァランダーを追いかけていく。彼自身、自分が老齢に蝕まれ、それが自分の「隠れた敵」であることを自覚し始める。

 一九四八年生まれ、この小説が書かれたとき、正にヴァランダーと同じ六十歳を迎えたヘニング・マンケルが書いているだけに、「老い」と「死」に直面していくヴァランダーの描写は、身に迫る、すさまじいものがある。また、それを読んでいる私自身が同じ問題を抱えているため、それは読んでいて心に突き刺さる描写である。この年齢になると、「老い」と「死」の影に、絶えずつきまとわれる。

 いよいよ最終回だけあって、この物語にはこれまで登場してきた人物が次々と登場する。アルコール中毒になったモナ、癌に侵されて余命幾許もないバイバ、また死んだ父親や、師匠のリドベリも回想シーンとして登場する。モナと会ったヴァランダーは、一瞬であるが、彼女と「よりを戻す」ことを考える。しかし、次に瞬間にそれを否定する。

「人生で後戻りはできない。素朴な気持ちでそうなって欲しいとどれだけ望んでも。人間はたった一歩でさえも時間を遡れないのだ。」(242ページ)

 癌に侵されたバイバは、「イタリア製の靴」のハリエットを思い出させる。「靴」と言えば、ヴァランダーは死んだルイーゼの靴が脱いで遺体の横に揃えてあったことに目を留め、彼女の死が他殺ではないかと思い始める。マンケルの小説を読むと、「イタリア製の靴」や「豹の目」においても、靴の描写が多い。彼が、「靴」に興味を持ち、それを題材に使うようになったきっかけを聞いてみたい気がする。

 ヴァランダーは、死んだ父とは必ずしもしっくりといってはいなかった。しかし、彼は自分が年齢を重ねるにつれ、外見、考え方とも、父親に似てきた気がする。この点、私も父の死に接して、同じようなことを考えていた。私は父親とは性格がまるで反対だと思っていたのだが、最近、父親と似てきた自分を感じる。ヴァランダーの父親はアルツハイマーであった。ヴァランダーの恐れは「自分もアルツハイマーになり、記憶を失っていくのではないか」という点である。その答えは最後のページにある。私事だが、父が亡くなり、葬儀のために日本へ帰る旅の間に、私はこの小説を読んだ。

 ホカン・フォン・エンテは海軍の軍人であり、かつて潜水艦の艦長であった。従って、この本を読むと、少なくともスウェーデン海軍の機構、組織、演習の様子がよく分かり勉強になる。しかし、それを知ったとしても、日本人として別に何の得にもならないと思うが。

また、この小説の興味は「スパイ」は誰であるか、という点である。冷戦時代の東西の「スパイ大作戦」の背景を知ることができる。スウェーデンという国は、狭いバルト海を挟んで、旧ソ連や東ドイツと非常に近い位置にある。それだけに、スパイの活動が活発な場所でもあったのだろう。「亡命したスパイ」というモティーフは、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」でも見られるものである。

冒頭に当時の首相、オロフ・パルメが登場する。私は彼を「暗殺された首相」としてしか知らなかった。スウェーデンの戦後の歴史をもう少し知っておれば、この小説をもう少し楽しめるかもしれない。一応、「ヴァランダーは政治に興味がない」ということになっており、政治的な背景にはかなり詳しい説明が付けられているので、それは助かる。

原題の「不安に駆られた男」は、もちろんホカン・フォン・エンテを指している。彼は、ヴァランダーに最初に会ったときから、「誰かに追われている」という印象を与える。それが本物なのか、演技なのかというのが、このストーリーの重要な点であることを述べておく。

ヴァランダー・シリーズの前作が出てからちょうど十年、久しぶりに懐かしい「友達」に会ったような気がする。そして、その「友達」に、

「自分はもう長くない。君に会うのもこれが最後だ。」

と宣告されたような気分だ。私にとって、「面白い、面白くない」を超越した、かなり衝撃的な本であった。

 

20125月)

 

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