「豹の目」

原題:Leopardens öga

ドイツ語題:Das Auge des Leoparden

2004年)

 

 

<はじめに>

 

マンケルお得意のアフリカを舞台にした物語である。しかし、主人公はスウェーデン人ハンス・オロフソン。ハンスのスウェーデンでの過去と、アフリカでの現在が交互に語られていく。私自身の過去の経験と照らし合わせて、心に沁みる作品であった。マンケルの作品の中でも、傑作の部類に入ると思う。

 

<ストーリー>

 

 ハンス・オロフソンはマラリアの熱にうなされていた。彼は十八年前、ルサカの空港に降り立ったときのことを思い出す。二十五歳のとき、ふとしたきっかけでアフリカのザンビアに立ち寄り、そのままその土地に住むことになったハンス。彼はその間常に死の危険を感じながら生きていた。熱に冒されている今も、彼は銃を手から離さない。

 

 一九五六年、スウェーデン北部の深い森の中の小さな町。川の畔に建つ小屋に住む十二歳のハンスは、父親が夜中にゴシゴシと台所の床掃除をしているのを見ている。父はかつて船乗りであったが、今はこの町で樵(きこり)をしている。母は、ハンスの生後間もなく家を出て行った。父親が床を磨くその姿に、ハンスは船乗りであった時代への未練と後悔を感じる。

 十二歳のハンスは仲間と遊んでいるとき、

「どうして自分は自分なのか。」

そんな疑問を抱く。彼は、自分も「いつかは死ぬ存在である」ことを知る。ハンスの世界に対する目はその瞬間に開かれた。

 再び海に出ることを夢見ながら森の中で暮らす父親は、アルコール中毒に陥る。ハンスは常に「ここを離れたい、広い世界に出て行きたい」と思って暮らすようになる。父親はかつて船乗り時代に訪れた異国の珍しい風習や自然をハンスに語る。ハンスの夢は、町を流れている川を下り、海に出て、そこから見知らぬ土地を訪れることであった。

 彼の住む小屋の傍に、町一番の立派な建物があった。裁判所である。ある日、そこに新しい裁判官一家が越してくる。ハンスは裁判官の子供のひとりで、自分と同じ年のストゥーレ・フォン・クローナと仲良くなる。同年代のふたりは、夜に家を抜け出し、色々な悪戯をしてまわる。店を荒らしたり、盗んだ酒を飲んだり。

ふたりの住む町の教会の敷地の中に、「鼻のない女」ジャニーが住んでいた。彼女は子供の頃手術の失敗で鼻を失い、顔の真ん中に大きな穴が開いていた。彼女は数度の自殺未遂の後、牧師に拾われ、現在は教会の世話で生活していた。ハンスとストゥーレは彼女を苛めと悪戯のターゲットにして、深夜、彼女の庭の花を刈り込んだり、彼女部屋にアリの巣を投げ込むなどの嫌がらせをする。

ある夜、ふたりは悪戯をしているところをジャニーに見つかってしまう。ジャニーはふたりを咎める様子もなく、自分の家に招き入れる。それから、ふたりはしばしばジャニーの家を訪れるようになる。三人の間には、連帯感のようなものが生まれる。彼女は、一方では敬虔なキリスト教徒で、教区の寄付集めにはなくてはならない存在であった。しかし、ジャニーは煙草も吸うし、酒も飲んだ。また彼女はサキソフォーンを吹いていた。ハンスとストゥーレは彼女からダンスなど、「大人としての必要なこと」を習う。

 ハンスとストゥーレは一緒に行動しながらも、常に反発、対立していた。ある日、ハンスは川に架かる鉄橋のアーチ型の橋桁を登り、向こう側降りてみせるとストゥーレに言う。ストゥーレは

「おまえがそれをやったら、俺もやる。」

と言う。ハンスは自分の言ったことを後悔しながらも、橋桁を登り、何とか向こう側に降りることに成功する。それを見たストゥーレは、

「俺は今はやらないけれど、いつかは必ずやる。」

と言う。

 卒業式の日、ストゥーレは学校に現れない。彼は川原で重傷を負っているところを発見される。彼は、独りで橋桁登りを試み、川に転落したのであった。ストゥーレは背骨を砕かれ、大きな町の病院に搬送される。

 ハンスは罪の意識に苛まれながら日々を過ごす。ジャニーはそんなハンスに自分の夢を告げる。彼女はアフリカに行きたいという。アフリカにはライ病(レプラ)があり、鼻のない人間が数多くいるのが主な理由だった。

ジャニーはザンビアのムチャチャという村を訪れることが自分の夢だと言う。スウェーデンの宣教師、ハリー・ヨハンソンは、妻と四人の子供達を連れて、アフリカの奥地に宣教所を建てるため、一八九八年にスウェーデンを旅立った。部族抗争の巻き添えや疫病で、ハリーは妻と四人の子供を相次いで失くす。それにも屈せず、彼は四年後、ついにムチャチャの地で宣教所を開く。ハリーは一九四七年にそこで亡くなるまで、五十年間をアフリカでの宣教に捧げた。ハンスの頭に「ムチャチャ」という土地の名前が深く刻み込まれる。彼は一度ジャニーと一緒にそこを訪れてみたいと思うようになる。ハンスは初めてのジャニーと初めてセックスをする。

 学校を出た後、ハンスは馬の商人の下で働き始める。しかし、馬を虐待する主人に耐えかねて職場を飛び出す。彼は町を出てギムナジウムに行くことを決心する。

 一九六二年、それはジャニーの最後の年になった。彼女はある土曜日の朝、政治的なプラカードを掲げて道路の端に立っていた。教会の牧師がそれをやめさそうとするが、ジャニーは聞かない。ハンスもジャニーの行動に腹を立ててジャニーの元を去る。それ以来、ハンスはジャニーに会うことはなかった。

八月の終り、ギムナジウムに入るために、ハンスは町を去る。その年の九月、ハンスはジャニーが水死体で見つかったという知らせを受け取る。ジャニーのお腹には子供がいたという。ハンスはジャニーに代わり、いつかはムチャチャを訪れることを決心する。

 ギムナジウムを卒業したハンスは、弁護士になるためにウプサラ大学の法学部に入る。しかし、彼はどうしても法律になじめない。彼は、学費を稼ぐために、週に三日、ストックホルムの武器商で働く。

 ハンスはある日、十年ぶりにストゥーレをサナトリウムに訪れる。ストゥーレは寝たきりの生活であったが、頭脳は極めて明晰で、何年もハンスの訪問を待っていたと告げる。ハンスはストゥーレを訪れた後、

「ムチャチャの他に自分に何が残っているのか。」

と考える。彼は有り金を叩いて、アフリカに向う、生まれて初めて飛行機の旅を始める。一九六九年のことであった。

 

 スウェーデンを飛び立ったハンスは、ルサカの空港に降り立つ。そこは景色が真っ白になるほどの強い日差しの照りつける、混沌に満ちた土地であった。着いた瞬間から、ハンスはこの土地とそこに住む人々を自分は好きになれないと思う。事実、その土地で経験することは、ハンスにとって耐え難いことばかりであった。彼は、そのままスウェーデンに戻ることも考える。しかし、ジャニーの夢であった、宣教所のある奥地のムチャチャという土地だけには行ってみようと、心を取り直す。

 彼は列車に乗る。その列車には英国人のマスターソン夫妻が乗っていた。マスターソンはザンビアで農場を営んでいた。彼等はハンスに協力を惜しまない。マスターソン夫妻は彼を自分たちの農場に宿泊させ、彼をムチャチャまで送り届ける手配をする。

 マスターソン夫妻の尽力で、ハリーはムチャチャに到着する。しかし、そこはハンスを勇気付けるような場所ではなかった。ムチャチャに最初に宣教所を作ったハリー・ジョンソンは、妻を失い、子供を失いここへ到着していた。その後、この宣教所はどんどん発展し、今では学校や、病院ができていた。しかし、住民と話したハンスは、彼等が物質的な利益を得るために「仮の」キリスト教徒になっているという印象を禁じえない。失望したハンスは、ムチャチャを出て、マスターソンの農場に戻る。

 マスターソンの農場では豹が家畜を襲っていた。マスターソンは隠れ家に潜んで豹を射殺することを試みる。豹はその罠を察知して逃れ去る。その作戦の際、ハンスは近くで養鶏所を営むジュディス・フィリントンと知り合う。ちょうど人手の足りなかったジュディスはハンスに後任者が見つかるまで、しばらくの間自分の養鶏所を手伝ってくれるように頼む。ハンスも数週間なら、と軽い気持ちで同意し、彼はカルルーシにあるジュディスの養鶏所で、管理人代理として働き始める。

 養鶏所には二万羽の鶏がいて、毎日一万五千個の卵が生産され、二百人の黒人が働いていた。ジュディスはこれまで白人の管理人とふたりで、養鶏所を切り盛りしてきた。しかし、その男がアル中になってしまったのだ。

 数週間ジュディスの元で働いたハンスだが、養鶏所の手伝いに見切りをつけて、スウェーデンに戻るために去る準備を始める。その矢先、ジュディスがマラリアで倒れる。彼女の看病し、養鶏所の世話をするうちに、ハンスは帰国する機会を逃す。ジュディスは周到にもハンスの労働許可の申請をしており、それが認可される。ハンスは、帰国をあきらめ、ジュディスの下で働き続ける。

 ハンスがジュディスの養鶏所で働き出してから一年後、病気がちのジュディスは、ヨーロッパに戻ることを決心する。彼女、今後利益の何パーセントかをジュディスに送金し続けることを条件に、ハンスに養鶏所を譲りたいと申し出る。ハンスは「自分が誰かに必要とされている」ことを嬉しく思い、その申し出を受ける。数ヵ月後、譲渡の手続きを済ませて、ジュディスはルサカ空港から飛び立っていく。

 ハンスは養鶏所を自分の理想の形に変えていこうと試みる。彼は従業員たちの自主性を尊重した体制に変える。また、従業員の子供達のために学校を建てる。しかし、その結果、規律は乱れ、用具や飼料は盗まれ、生産がガタ落ちになる。また、従業員の給料を上げたことで、近隣で農場を経営する白人達からの反発に遭う。

 ある日、ハンスは、ピーター・モントブワーネという黒人のジャーナリストの訪問を受ける。彼はハンスにとって、唯一の黒人の友人となる。

 ハンスは何をやっても、一時だけの効果しかなく、すぐに元に戻ってしまうアフリカの体質に嫌気を感じながらも、養鶏所の経営を続ける。何かにつけ賄賂を要求してくる警察官のピリー、何でも調達してくれるインド人の商人のパテルなどとも付き合い続ける。アフリカに渡って九年後の、一九七八年、彼は父親の死の知らせを受け取る。彼は黒人の女性に父親の死を泣いてもらう。

 ハンスは養鶏所での事故で死んだ男の未亡人ジョイスと親しくなる。彼は、ジョイスのふたりの娘に看護婦になる教育を受けさせるために、ルサカに送る。ふたりの娘は、スウェーデン政府から派遣された、援助団体の男、ホカンソンの家に下宿させる。

 ハンスは四十歳の誕生日をアフリカで迎える。彼はその直後、最初のマラリアの発作に襲われる。一九八七年、ハンスがザンビアを訪れてから十八年目、長い雨季があり国内には飢えが広がり、政府に反対する勢力が蜂起して、国情も不安定になる。養鶏所の従業員の中にも不安が広まる。

 ある夜、ハンスはマスターソン農場の男によって起こされる。彼等の農場に何かが起きたという。ハンスが駆けつけると、マスターソン夫妻は、首を切られて殺されていた。それは単なる盗賊の仕業ではなく、白人に深い憎悪を持ったもの犯行のように思われた。周囲に住む白人達の間に動揺が広まり、ハンスも毎晩、自分の家の入り口にバリケードを築き、銃を枕元に置いて眠るようになる。

 ある日、ハンスの番犬が殺され、その切り落とされた首が、入り口の垣根に突き刺されているのを、彼は発見する。ハンスは、自分が何者かによる白人虐殺の、次の標的になっていることを感じる。彼は、従業員達の動揺を抑えるために、「魔法を使う」ということで、他の従業員から畏れられているアイゼンハウアーという男を首にする。その結果、従業員はたたりを畏れて誰も働かなくなる。ハンスはアイゼンハウアーを仕方なく再雇用する。

 ハンスは友人のジャーナリスト、ピーター・モントブワーネに相談する。ピーターは、騒乱と国民の不安は治まりつつあると述べる。ハンスは少し安心する。ある夜、ハンスは、自分の家に何者かが侵入しようとする気配を感じる。すんでのところで、ハンスは侵入者の一人を射殺する。その男は、ハンスのよく知る人物、そして、極めて意外な人物であった・・・

 

<感想など>

 

ストーリーでは時系列に書いたが、実際は、スウェーデンでの出来事とアフリカでの出来事が交互に語られる。つまり、スウェーデンでハンスが成長しアフリカ行きを企てる過程と、アフリカでハンスが直面する色々な問題が、交互に語られるのだ。そして最後に、どうしてハンスがアフリカに来るようになったか、そして、どうしてハンスがアフリカを去るようになったかが、同時に解明されるという形式がとられている。

 

主人公ハンスには、個人的に大きな共感を覚えた。それは、彼が私と同じような体験をしているからだ。

彼は十二歳のとき、古いレンガ工場で戦争ごっこを遊んでいて、突然「自分は自分であり他の誰でもない」、「自分はいつか死ぬ存在である」ということを知る。これがハンスの転機となる。

私の場合もそうであった。誰も、自分の見聞きする体験を、一種の途切れのない映画のシーンのように見ている。しかし、その映画が終わったとき、「観客である自分も、一緒にいなくなる」ということを、私は幼稚園の頃に発見した。それから、私なりの苦悩が始まった。それは衝撃的な発見であった。そんな「発見」を、これほどクリアーに表現している小説は他になかったような気がする。

またハンスは最初二週間のつもりでアフリカを訪れ、それが結局二十年に及ぶ。私も最初、三、四年間だけ離れるつもりで日本を発った。そして、いま三十年近くヨーロッパに住んでいる。

ハンスもアフリカが好きで住むようになったわけではない。彼は、実際アフリカに対して、最初から最後まで良い印象を持っていない。私も、英国が好きで住んでいるわけでもない。ふたりとも、折々に起こった偶然の連続で、考えもしなかった場所で、人生を歩むことになる。

しかし、これって本当に「偶然」なのであろうか。節目節目で、ハンスも私も選択の余地はあった。そして、そのとき、無意識に、自分が現在の道を歩むような選択をしてきたのではないだろうか。「偶然」の「必然」ということを考えさせられた本であった。

 

白人のアフリカ支配、黒人の独立についても考えさせられる。

ハンスがムチャチャへ向かう列車の中で出会い、懇意になるマスターソン夫妻は、アフリカを支配する白人側の意見を代弁している。

「アフリカ人にとって『独立』とは、もう働かなくてよいということに過ぎない。」(53ページ)

「黒人達は、その能力ゆえに白人達を妬んでいる。」(72ページ)

「黒人と白人の間で『会話』は成立しない。そこには『命令』があるだけ。」(76ページ)

 マスターソンを始め、白人の農園経営者は、黒人達は、徹底的に監視、管理をしないと、働かなくなることを知っている。それは歴史でも証明されている。ジンバブエでもそうだが、独立の後、白人が一斉に引き上げると、いや、半ば強制的に追放されると、それらの国の生産性はガタ落ちになり、経済は疲弊した。独立が、その意味では経済の混乱と破綻をもたらしたことは明らかだ。

ハンスは最初、自分は他の白人とは違うと自分に言い聞かせる。養鶏所を任されたときも、彼は一種の理想主義を掲げ、黒人との宥和を図ろうとする。しかし、だんだんとそれが無駄な努力であることが分かってくる。最初、彼はアフリカ人の尊厳を少しは認めようとする。

「アフリカは、傷つき死にかけてはいるが、反撃の力だけは残している野獣である。」(79ページ)

しかし、ザンベジ川の源流を訪ねた彼は、アフリカに留まることを決心し次のように考える。

「白人はアフリカを『支配する』という形以外でしか、アフリカを救えない。」(227ページ)

また、警察官ピリーにより、アフリカで「賄賂」が必要悪であること、またスウェーデンの経済援助団体のホカンソンの言葉により。アフリカ諸国に対する「経済援助」の大部分が、一部の支配階級の蓄財に使われていることも示唆されている。

本当にアフリカ人は、怠惰な、協調性のない人々なのだろうか。それは、欧米流の価値観を当てはめるからそう見えるだけなのだろうか。この疑問は物語の最後まで解かれることはない。

 

「鼻のないジャニー」、この女性はハンスの一生に大きな影響を与える。母親を知らないで育ったハンスの母親代わりでもあり、また、ハンスを大人に成長させていく案内人でもある。また、彼女の弾くサキソフォーンと、彼女の語るアフリカ、ムチャチャへの情熱は、ハンスの目を世界に向けさせるきっかけとなる。また、同時に彼女はハンスにとって、欲求のはけ口でもある。

自殺未遂をしたあと、牧師に拾われたた彼女は、ハンスの町の教会の「客寄せパンダ」の役割を果たしている。「鼻のない」ということで同情した人々が、彼女の呼びかけに応じてより沢山の寄付をするからだ。彼女は自分のそういった立場を利用し、世間の人々と一線を画した生活をしている。そんな彼女を、ハンスは「美しい」とさえ思う。子供の頃の、他の誰にも知られることのない、自分達だけの秘密の関係。確かに「美しい。」

ハンスは最後、全てを失う。信用していた者にも裏切られる。しかし、アフリカを去る彼に妙に敗北感はない。私は、その幕切れで、映画の「Out of Africa」(邦題:愛と哀しみの果て)を思い出した。メリル・ストリープの演じる主人公は、アフリカの農場に嫁ぎ、役立たずの夫を叩き出してひとりで農園を経営し、最後は自分を支えてくれた恋人も、農園も失ってヨーロッパに戻る。しかし、そのとき、彼女には敗北感は微塵も感じられない。私もヨーロッパを去り、日本へ戻るときがあるならば、そんな一種の誇りを持って、帰路に就きたいものだ。

 

Out of Africa」の一シーン。

 

2012年6月)

 

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