「風の語り部」

原題:Comédia infantil子供たちの喜劇

ドイツ語題:Der Chronsit der Winde 風の語り部

1995年)

 

 

<はじめに>

 

 ヘニング・マンケルは作家としての執筆活動の他に、アフリカ、モザンビークでの劇場の再興活動に尽力した。その経験を基に書かれた、アフリカのある都市の、劇場を文字通り舞台にした物語である。

 

<ストーリー>

 

 私、ジョゼ・アントニオ・マリア・ヴァズは、今は乞食をしながら、人々にネリオの物語を語っている。私は一年前までは、パン焼き職人だった。その証拠に、私のポケットの中には小麦粉の袋が入っている。一年前、私は息絶えたネリオをパンの窯で焼いた。まだ十歳を超えたばかりのネリオは、九日間の間私の元で最後の日々を過ごし、その生涯を私に語り、死んでいった。私は彼が人間ではなく、神、あるいは聖人ではないかと思うことさえある。そして、彼のことを人々に語ることが、今の自分の使命だと思っている。

 

 私は当時、ドナ・エスメラルダの経営するパン屋で働いていた。当時九十歳を超えていると思われる女性、ドナ・エスメラルダは、植民地時代に永年この土地の知事を務めた父を持っていた。内戦の末、この国がアフリカの最後の国として植民地支配から脱したとき、エスメラルダは革命軍に協力をした。内戦が終わったとき、彼女はこの国で唯一残った劇場を引き受ける。荒れ果てた劇場を修復し、自ら脚本を書き、俳優を集め、彼女は演劇を復興する。その資金を得るために、エスメラルダは劇場内にパン屋を設ける。六歳のときからパンを焼いている私、ジョゼ・アントニオ・マリア・ヴァズは、エスメラルダに雇われ、彼女の下で働くことになる。

 エスメラルダのパン屋で働くようになり数年経ったある夜、深夜パンを焼いていた私は物音に気付いて劇場の舞台に行く。そこには煌々とした照明の下、ひとりの少年が胸から血を流して倒れていた。私はその少年、ネリオは胸を二カ所銃で撃たれていた。私はネリオを屋根裏部屋へ連れて行き、マットレスの上に寝かせ、傷の手当てをする。医者に連れて行こうかという私の提案に対して、ネリオは自分のことは誰にも言わないでくれと頼む。私は、近くに住む民間療法をする女性から薬を貰い、パン屋に泊まり込んでネリオの看病を始める。ネリオは、私に、彼のこれまでの人生を語り始める。

 

 ネリオは、奥地の村で、母親と兄弟たちと暮らしていた。彼が七歳になったある夜、村は盗賊団の襲撃を受ける。盗賊団は、村を焼き払い、住人の半数を殺す。生き残った村人は広場に集められる。ネリオはそこで、生まれたばかりの妹や、叔父が無残に殺害されるのを見る。盗賊団は、生き残った村人たちを自分たちの基地のある別の村に連れていく。そこで、ネリオを始め、少年たちは別の場所に連れて行かれる。盗賊団の首領とみられる男が、ネリオに銃を渡し、ネリオの親戚の少年を撃つように命じる。ネリオはその盗賊団の男を撃ち、その場所から逃走する。彼は、何とか盗賊団から逃げ切り、大きな川の傍までやってくる。そこで小人でアルビノ(先天性色素欠乏症)の、ヤブ・バタと出会う。

 ヤブ・バタは十九年間、自分の夢見た小道と出会うことを求めて、放浪の旅をしていた。ネリオとヤブ・バタは数日間一緒に旅を続ける。ネリオを海岸まで連れていったヤブ・バタは、そこでネリオと別れを告げる。ネリオが海を見るのは初めてであった。別れ際、どちらの方向に行ったらよいかというネリオの質問に、ヤブ・バタは南へ行けと答える。

 ネリオは漁師の手伝いをして糧を得ながら、海岸に沿って南に歩き、ついに大きな町に達する。彼はそこを気に入り、その町で住むことにする。ネリオは、かつての知事の騎馬像を見つけ、また、その銅像の馬の胴体の部分が空洞になっているのを発見する。ネリオはそこをねぐらにし、他の孤児たちとともに町で暮らし始める。ネリオが町に着いて数日後、彼はひとりの孤児が警察官に捕まり、殴られているのを見かける。彼は、道路脇に立つ信号機に操作盤の蓋を開け、中のスイッチを触り、滅茶苦茶な信号を流す。直ぐに交通は混乱し、警官は慌てて捕まえていた孤児を放し、信号機に向かって走り出した。助かった孤児、コスモスはネリオがそれをやったことを知っていた。数人の孤児のリーダーであったコスモスは、ネリオに自分のグループに入らなかと誘い、ネリオもそれに同意する。グループの中に、一番年下で、片手のアルフレド・ボンバという少年がいた。いかにも大人の同情をかいそうなアルフレド・ボンバは、いつも一番多くの金を稼いできた。

 

 ネリオが、アントニオ・マリア・ヴァズのパン屋の屋根裏で寝ている時、外では何千人もの孤児が道路に出て、

「ネリオはどこだ。」

「ネリオを返せ。」

と叫んでおり、警官隊も手が付けられない事態になっていた。アントニオ・マリア・ヴァズのパンは、もしネリオがここにいて、医者にもかかっていないことが分かると、自分は子供たちによって袋叩きに会い、殺されるのではないこと心配する。しかし、ネリオ自身は、そこにいて、自分の人生を語りたいという。三晩目、ネリオの話は続く。

 

コスモスとネリオは、町一番で裕福な男が常に持っている鞄に何が入っているか興味を持つ。ひょっとしたら大金であろうか。車を密かに開け、その鞄を開けると、中に入っていたのは、干からびたトカゲ一匹であった。何の変哲もない、何処にもいるトカゲである。ネリオとコスモスは、ひとの壮大な遊びを思いつく。彼らのグループは、まず干からびたトカゲをこしらえ、デパートや、公共の建物に侵入する。そして、そこにトカゲを置いて来るというものである。この「トカゲ」で、町中の話題が沸騰する。それを見て、コスモスとネリオは楽しむ。彼らはついて大統領官邸に侵入し、眠っている大統領の横にトカゲを置いて来るという計画を立てる。一年以上の情報収集と、周到な準備の後で、彼らは洗濯物に紛れて、大統領官邸に入り込むことに成功する。夜になり、コスモスとネリオは、大統領の寝室に向かう。

 コスモスはある日、自分は旅に出るので、後は頼むと言う。コスモスがいなくなった後、ネリオはグループを率いる。最初は、ネリオに従うことを拒むメンバーもいたが、最後はネリオに従う。

 デオリンダというアルビノの少女が、ネリオたちのグループに入りたいと言ってやってくる。女性、白い人間ということで、メンバーたちは不吉だと言って拒むが、ネリオを彼女の参加を認める。デオリンダは、文字が読め、意外な才能を示し、彼らに多くの利益をもたらす。デオリンダは自分がコスモスの妹であることを告げる。しかし、ある夜、ナシメントがデオリンダに無理矢理セックスを迫ったことから、デオリンダは行方不明となる。

 グループの中で一番年下のアルフレド・ボンバが病気になる。日に日に弱っていくアルフレド・ボンバを見て、ネリオはグループの全ての金をはたいて、彼を医者に見せる。医者は、アルフレド・ボンバの肝臓に癌があり、彼の命はもう長くないとネリオに告げる。アルフレド・ボンバは、かつて母親が自分に語った、心配事や悩みのない、美しい海岸のある島に行きたいという。ネリオは、その夢をかなえるための計画を立てる。しかし、その計画は、結果的に、ネリオの命をも奪うことになる・・・

 

<感想など>

 

 この物語の舞台はモザンビークである。ジョゼ・アントニオ・マリア・ヴァズとネリオの住む町は、その首都のマプトである。しかし、国の名前や町の名前は物語の中に一切出て来ない。モザンビークはポルトガルの植民地で、独立したのが一九七五年とアフリカの国々の中では最も遅い。しかし、独立後も一九九二年まで内戦が続く。独立後の社会主義政権に対して結成された反政府組織は、兵力を集めるために農村部で強制徴用を行い、同時に暴行、略奪を繰り返した。この反政府組織が「盗賊団」として、ネリオの語りの中に登場している。社会主義のアフリカへの浸透を怖れた、南アフリカなどが、反政府勢力を支援していたという。従って、劇場のオーナーのドン・エスメラルダはポルトガル人ということになる。この小説が発表された一九九五年は、ようやく内戦が終結し、モザンビークが本当に復興の道を歩み始めた頃である。

 ヘニング・マンケルは一九八五年、モザンビークから招へいされて、劇場の再興のためにマプトを訪れている。そこで、「テアトロ・アヴェンディタ」というモザンビークで唯一のプロ劇団の結成に尽力。その後も、その活動のために、多くの時間をマプトで過ごしている。つまり、ドン・エスメラルダの役割を、マンケル自身が担っていたことになる。

 「アメリ」というフランスの映画がある。オドレイ・トトゥの演じるアメリという少女が、色々な筋書きを作り、大人を自分の思うように動かすというストーリー。アメリは「フィクサー」である。この物語のネリオもそのアメリと同じ「フィクサー」の役割を果たす。まだ十歳のネリオだが、彼は他人にはないアイデアと、それを人々にやらせるカリスマを持っている。この少年の不思議な個性が、この物語の最大の魅力と言えよう。

 また、アフリカの歴史、独立、内戦、復興という過程を知る上でも、役に立つ作品である。マンケルはそれなりにアフリカの現状を読者に訴えたいという気持ちでこの作品を書いたのだと思うが、その押し付けのなさがよい。

 マンケルの作品の多くは童話的、寓話的で、そこにリアリティーを追い求め、それに対して語るのは意味がない。この物語の登場人物も、象徴的、類型的であるが、童話、寓話である以上、それは避けられないと考える。しかし、この物語は、西欧人、日本人が「知らない世界」を垣間見させてくれる。その意味でも、他人に勧めたい本である。

 

201511月)

 

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