マユミ

マユミと、兼六園で、彼女は19歳。

妻のマユミとの出会いから、結婚までの話である。

初めてマユミと出会ったのは、僕が大学を留年して、学生生活五年めに入った頃である。四月の天気の良い土曜日の午後、場所は金沢市営陸上競技場。僕は陸上競技部に属していたが、五年めになるともう対校試合には出られない。言うなれば員数外の気楽な立場であった。その日も、いつものように練習が始まったが、足を痛めていた僕は、トラックを走る他の部員たちを横目に、芝生の上で独り柔軟体操と補強運動をやり始めたところだった。

後輩で主将の坂井が、一人の女の子を連れて僕の方へやって来た。

「川合先輩。この子入部希望なんですが、初心者なんです。面倒見てやっていただけますか。」

「ああ、いいよ。一緒にストレッチングと補強運動をやっておくよ。」

そんなわけで、僕はその髪の毛を後ろで束ね、白いTシャツと赤いトレパンを着た女の子と組んで、腹筋、背筋、腕立て伏せなどの運動を始めた。その子に尋ねると、地元の高校を卒業して、今年、僕の行っている大学の医学部付属の看護学校に入学したばかりだと言う。先月まで高校生であったのだから仕方がないが、随分子供子供した印象だった。大学の陸上競技部員は高校からの経験者が殆どで、大学へ入ってから陸上競技を始めようという人間はごく稀な存在である。その点で、少し変わった子だと思った。その女の子がマユミであり、彼女は僕よりちょうど四歳年下であった。補強運動をする僕たちふたりの横を、チームメートや高校生たちが春の日差しを浴びながら軽快に走り抜けて行く。

「のどかな午後だ。それに、今日は若い女の子のお相手もできるし、ラッキーな日だな。」

僕は何となく嬉しくなった。

僕が大学にもう一年いることになったのは、父親には留学生試験を受けるためと説明しておいたが、実際のところ、四年生の時に駅伝チームが全日本大学駅伝の出場権を得たため、その練習や合宿で、卒業論文を書くどころではなかった。

僕は四年生でも、決して速い選手ではなかった。チームの他の下級生メンバーの頑張りで全国大会へ連れて行ってもらったようなものである。本番では一番短い十一キロを走らせてもらった。走っている途中、全然足が地面に着いている気がせず、沿道の観衆だけが、映画でも見ているように、自分の後ろに流れ去って行った。スタートしたときは最下位だったので、すぐ後ろには、「ご声援有り難うございました。」と連呼する最終車と、交通規制の解除を待ちかねている車の群れが迫っていた。僕は岐阜大学の選手を抜いて、最下位を脱出し、自分の受け持ち区間を三十七分で走り切った。

次の走者は繰り上げスタートで出てしまってもういなかった。チームは結局最下位であった。しかし、僕の心の中には、満足感が残った。全日本大学駅伝で走ることによって、陸上競技をやっていた総決算が着いたような気がして、気分的にはすっきりした。

留年した一年間で、先ず卒業論文を仕上げなければならなかった。構想は前年からだいたい出来ていたし、それを文章にしていくのはそれほど難しいことではなかった。父親からの仕送りがはまだあり、夜、学習塾の講師の仕事による収入も加え、生活は楽だった。卒業後どうするのかを考えた時、まともに働くという気にはどうしてもなれなかった。まだまだ自由に暮らしたかった。せっかく始めたドイツ語も卒業するだけの最小限の勉強で終わらせたくなかった。僕は大学院に進むことにした。大学院に進めば、奨学金が貰える。また、男が二十五歳近くなってぶらぶらしていても、勉強熱心な人と他人は見てくれて、大義名分は立つ。僕は父親に対して、就職活動はしない、修士課程に進むと宣言した。ただ、それに先立つ勉強はしなかったが。

論文書き、夜の仕事と、陸上競技部の練習にも疎遠になった。マユミとは大学の構内で一月に一二度顔を合わせて立ち話をするくらいだった。時々、夜の仕事のために大学の建物を出ると、ちょうど練習中のマユミが走り過ぎていくこともあった。

陸上競技部の誰かが、

「あの子だけは笑う時、口に手を当てて笑う。」

とマユミのことを評していたことを思い出す。気が強くて活発な女の子が多い女子部員の中では、マユミは奥床しいという印象を受けた。いつもニコニコとしているのも好感を受けた。僕と会ったとき、とても嬉しそうな表情をするので、ひょっとしたら、彼女も僕に好意をもっているのではないかとも思った。彼女と顔を合わせることがを楽しみになり始め、マユミの笑顔を見るうちに、彼女とはひょっとしたらうまくいくと、予感めいたものが湧いて来くることもあった。

十二月に卒業論文を提出して、一月に名古屋大学の修士課程の試験を受けた。不合格であった。その後一度京都の実家に帰ったが、その日のうちに父親と衝突し、一日で金沢に舞い戻った。住むところは、とりあえず、近所に住んでいた陸上競技部の後輩が卒業したので、そのアパートを引き継ぐことにした。しかし、当座、どうして暮らしていくかが問題であった。僕は生まれて初めて職業安定所へ行った。職探しには職安、単純な発想である。僕はそこで、

「喫茶店ウェイター、求長期、時給五百円、香林坊福音館地下ライフ」

というのを選んだ。

翌朝から、その喫茶店で、白いシャツに蝶ネクタイをつけて早番の日は朝八時半から夕方五時半まで、遅番の日は昼十一時半からよる八時半までウェイターとして働き出した。昼飯どきの混雑しているときなど、効果的に、かつ機敏に動き回るのは、結構難しかった。しかし、体を動かして働くことは思っていたより快かった。また、一緒に働く人たちも、これまで全く知らない世界の人たちで興味深かった。しかし、最初の給料日まで、金のないのには困った。アパートに帰っても、金がなくて、じっと天井を見つめている時間が長かった。家庭教師の謝礼に貰った百貨店の千円の商品券を、机の引き出しの奥から発見した時は嬉しかった。休憩時間にその百貨店へ行き、商品券で十円のマッチを一つ買い、釣の九百九十円でまた数日暮らした。

最初の給料を貰い、家賃も払え、一息ついたときは五月の連休の頃だった。ある夜、陸上競技部のコンパに呼ばれ、そこで久しぶりにマユミに出会った。僕は、今こそ、心の支えが必要だと思った。また、早くしないと、彼女が他の男と付き合いだす可能性もあった。僕は彼女に、翌日の朝、私が働いている喫茶店の前の公園で会いたいと伝えた。

翌朝、彼女はそこへ来てくれた。そこで

「好きだ。」

と彼女に告げた。マユミは、

「それを聞いて私も嬉しいわ。」

と言った。その日は天気の良い休日で、デート日和であったが、僕は喫茶店ライフでの仕事のため、昼前にはマユミと別れ、地下街への階段を下りて行った。

マユミに好きだと告げ、彼女の返事も好意的だったことが、その日暮らしのどん底生活の中に、希望を与えてくれた。しかし、喫茶店での仕事は、人手不足のときは、早番と遅番を連続してこなすこともあり、仕事とアパートに帰っても疲れて寝るだけの生活になってしまった。このままでは、大学院の再受験のための勉強はおぼつかない。勉強をしなくては、と思いながら、僕は相変わらず、アパートでベッドの上に横たわり、天井を見つめて時間を過ごした。

マユミが家族に僕のことを告げたので、マユミの母親が、僕の働く喫茶店に「偵察」に来たことがあったらしい。「らしい」と言うのは、僕は彼女の母親の顔を知らなかったし、一日百人以上のお客に接するので、後で聞いても全然思い出せないのである。僕も、喫茶店で働いていることを全く恥じてはいなかったので、それを聞いた時、どうぞご勝手に、と思った。

ただ、そこで働いている姿を見られたくない人もいた。その喫茶店のあるビルの上の階に、ある生命保険会社があった。その生命保険会社に、僕がそれまで家庭教師をしていた子供の父親が勤めていた。その父親が時々地下街に現れるのであるが、僕は自分が喫茶店で働いている姿を、何故かその父親にだけは見られたくなかった。彼が、地下街に姿を見せると、僕は他の店に入るよう、心の中で念じた。幸い、その人の馴染みの店が他にあるらしく、僕の働く店に入って来ることはなかった。

八月で、その喫茶店を辞めた。いよいよ本格的に勉強を始めないと、来年も同じ運命をたどる危険性があった。辞めたいと言ったとき、貿易会社も経営しているその店のオーナーから自分の会社で働かないかと誘われた。自分は上の学校に進みたいからと断った。喫茶店を辞めた次の日曜日、僕はマユミを誘って海へ行った。五ヶ月間休みなく働いたので、少し「ご褒美」があってもいいと思った。マユミと待ち合わせ、僕の軽乗用車で能登海浜道路を走り、朝の十時頃にもう海辺についた。人はまだ殆どいなかった。午前中の海の水は泳ぐには少し冷たすぎた。僕はピンクの水着を着たマユミの膝枕でごろごろしながら一日を過ごした。喫茶店ライフでの半年間が頭の中にまだ渦を巻いているようだった。

秋になり、本格的に勉強を再開した。父親には最後のお願いということで仕送りを頼んだ。失敗した前年の大学院の入試では、ドイツ語の単語力の不足が決定的で、「この単語の意味が分からなければ、全体の意味もとれない」というキーワードが幾つか理解できずに苦しんだ。僕は、フリッツ・マルティーニ著のドイツ文学史を毎日三ページずつ読み、それに出て来た未知の単語を全て単語帳に書き付け、片っ端から覚えるという方法をとった。単語帳をいつも持ち歩き、少しの暇を見つけては、単語帳を繰った。この半年間は、僕が生まれて初めて真剣に勉強をした時期になった。

秋になり駅伝シーズンになると、駅伝チームが合宿をすることが多くなった。マユミも中長距離の選手ということでその合宿に参加していた。僕も特別参加で合宿所に寝泊まりさせてもらい、ひとり別室で、毎日、文学史と単語帳と格闘していた。マユミが時々その部屋に現れては、話をしていった。彼女は僕の呼んでいる分厚いドイツ語の専門書を、驚きの眼差しで眺めた。

翌年二月、金沢の同じ大学の修士課程ドイツ文学研究科に合格した。その年の合格者は幸田さんという中世神秘主義を専門にする男と僕の二人であった。僕は最低あと二年間金沢に住むことになり、その間、大学院生としての身分と、共用ではあるが研究室と、月八万円の奨学金を保証されることになった。マユミとの関係もうまくいっていたし、まずは、二年間のモラトリアムを得たことで僕はほっとし、嬉しかった。

僕がマユミの母親と祖母に初めて会ったのがいつだったかは、はっきりと思い出せない。マユミによると、彼女の花道の展覧会を見に行った時、着物姿のマユミの横に母親と祖母がおり、お互い挨拶をしたのが最初だという。僕はそれまで、自分が他人に話を合わせていける性格なので、自分より年上の人間とは、悪い印象を与えないで上手に付き合っていける自信があった。しかし、マユミの母親と祖母に対する第一印象は芳しくなかったものと思われる。暗い印象を与えてしまったらしい。また、マユミは後ほど、僕の両親が離婚をしているのも一つの理由だと言った。ともかく、マユミは僕と付き合っていることに対して、母親と祖母から強硬な反対に会った。

その頃、マユミと肉体関係ができた。また、二人で海水浴に行った後など、家族風呂に行き、一緒に風呂へ入るなど、ふたりの行動もだんだんと大胆になってきた。マユミは僕との交際が母親と祖母に反対されていることについて、僕には多くを語らなかった。後で考えてみると、日曜日など僕と会うために家を出る時、母親か祖母との間に一通りではない言い争いがあったのだろう。

ある月曜日の夜、学習塾の講師の仕事が終わって九時半頃アパートに帰ると、自分の部屋の扉の隙間から明かりが洩れている。鍵など掛けていないので、入ろうと思えば誰でも入れる部屋である。友達でも来ているのだろうと、部屋に入るとマユミの母親が部屋の真ん中に座っていた。いやな予感に捕らわれながら、僕も仕方なく対座した。面と向かって話すのはこれが初めてである。母親はこう切り出した。

「昨日、娘からあなたと娘の間に肉体関係があることを知りました。」

話を聞くと、昨夜マユミに僕との交際を止めるよう、強く言ったところ、売り言葉に買い言葉で、

「わたしはあの人と一緒に寝たこともあるの。」

とマユミが言ったらしい。

「あの子はこれまで、親に口答えひとつしたことのない子で、云々。あの子はまだ世間知らずの子供だから、云々。」

僕は黙って聞いていた。

「今後、絶対にこういうことのないようお約束してください。」

マユミの母親は言葉を切った。

「大変申し訳ありませんでした。今後気をつけます。」

僕は、畳に手をついて誤った。本心からではなかったが、こういった場合、あれこれ言うより、この場はまず素直に謝った方が丸く収まることを、二十四歳のその当時には、既に体得していた。

その後も、マユミとの肉体関係は続いた。マユミは、看護学校の実習、クラブの合宿、女友達の家に泊まるなど、様々な理由をつけて僕のアパートに泊まっていった。

大学院生の研究室は金沢城内のキャンパスの最も高い部分の三階で、窓から香林坊の方から長い坂を上がって通学して来る学生たちがよく見えた。僕は自宅で勉強することは殆どなく、いつも研究室の自分の机で、辞書を引き引き演習の準備や、論文の下書きをしていた。ある五月の午後、研究室の窓から、水色のポロシャツを着て、白いタイトスカートを履いたマユミが坂を上ってくるのが見えた。手を振ったが、青白い表情をしていて、いつもと違う様子に見えた。研究室では向こう側の机で幸田さんが勉強中だったので、僕は下に停めてある自分の軽乗用車の中でマユミと話をすることにした。

マユミが切り出したのは、別れ話だった。

「ここで別れることが皆にとって一番いいことのように思うの。」

彼女は、そう言った。

「皆に反対されている中では、本当に幸せになれないような気がするの。」

マユミは母親と祖母との諍いと、説得攻勢に疲れ果てたようだった。彼女をこれ以上家庭内で苦しめるのは忍びず、彼女の言うことに従おうと思った。僕は、かつて恵美と別れた日のことを思い出した。「自分は、女性とはいつも別れる運命なんだな」と思った。また、こうなればきれいに別れようとも思った。僕は彼女を乗せたまま車を走らせた。そして、海岸へ出た。しばらくの間、海岸に停めた車の中で二人で抱き合って声を出して泣いた。

その日の夜、マユミと別れてから、僕は学習塾の塾長、主任教授、その他、迷惑のかかりそうな人達に、父親が急に手術をすることになったから故郷へ帰ると連絡した。そして次の朝、銀行から有り金を全て下ろすと、金沢駅から青森行の特急「白鳥」に乗った。

北海道に渡り、十勝池田の姉の家に

「また来たよ。」

とだけ言って上がり込んだ。四歳の姪は、遊び相手が来たので喜んだ。その後、稚内から利尻島、礼文島に渡たり、二週間ほど北海道を放浪した。どうせ金沢にいても何も手につかないのは分かっていたし、マユミも僕が周りにいると困るだろうと思ったからだ。

礼文島では、一緒にユースホステルに停まった連中と、周囲三十キロの島を、歩いて一周した。四人の女性と僕も含め二人の男性、いずれも若い者ばかりである。その中のひとり、あゆみさんと言う名前の、五十CCのバイクで北海道を一周中の女の子に、マユミとの出来事を話した。あゆみさんはこう言った。

「川合くん。あんたはその子を非難しちゃいけないよ。女は子供を産んで育てなければならいんだからね。そのとき、やっぱり、自分の母親の援助は必要だろ。女が家族を選んだって言っても、それは打算じゃないんだよ。女の責任感からなんだよ。」

年は僕と変わらないのに、あゆみさんの言葉は、妙に説得力があった。僕はなんとなく、納得したような気分になった。

旅先から、マユミに電話を架けることはなかった。架けても取り次いでもらえないだろうと思った。しかし、手紙を出した。と、いうより、列車の中などで暇さえあれば、マユミに手紙を書いていた。何かを、誰かに書かざるを得ない、そうしなければ、苦しくて仕方のない気分だった。ただ、島で過ごした数日で、気分がかなりすっきりしてきたことも確かだった。そのあと、独りになっても、涙が流れることはなくなった。

二週間ほどして、学校のことも気になりだしたので帰ろうと思った。夜行の青函連絡船で青森を降りた時、ちょうど秋田県沖で地震があり、日本海岸を走る列車は全て不通になっていた。僕は、郡山まで東北本線、そこから会津若松を通り新潟へ抜けて、夜遅く金沢に着き、アパートにたどり着くなりベッドの上でぐっすり眠ってしまった。

目を覚ますと、朝の光の他に、白いものが目に入った。よく目を開くと、それはマユミの顔だった。

「俺が目を覚ますのを待っていたのか?」

と聞くと、マユミは首を縦に振った。

「やっぱり、わかれられない。」

マユミは僕に言った。

「俺もだ。」

僕はそう言ってマユミを抱き寄せた。

「俺が旅先から出した手紙を読んだ?」

「涙が出て、とてもおしまいまで読めなかった。」

彼女を抱きながら、今後どんなことがあろうと彼女と別れないでおこうと心に決めた。

その後一年間、マユミと僕は反対されながらも交際を続けた。そして、翌年の四月、僕が富山県の会社に就職した後、ついにマユミの母親と祖母が折れて、僕たちの関係を認めた。その年の秋、僕とマユミは結婚をした。

 

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