トリーニ邸のマーシャル

The Marshal at the Villa Torrini / Geburtstag in Florenz

 

 フィレンツェの郊外の丘の上に立つトリーニ邸。その持ち主である老婦人からガルナシアは呼び出しを受ける。若い警官と共に深夜屋敷を訪れたガルナシアに対し、老婦人は間借り人の様子がおかしいと伝える。彼女は、かつての納屋を住居に改装して、イギリス人の女流作家セリア・カーター夫妻に貸していた。その風呂場の電気が夕方からつきっぱなしになっていると言う。ガルナシアはカーターの住居に入る。妻のセリアは風呂場の湯を張ったバスタブの中で死んでいた。そして、夫のジュリアン・フォーブスは寝室で、泥酔し眠りこけていた。

 奇妙な事件である。検視の結果、セリアの死因は溺死と判明。しかし、身体に引っかき傷など、争った後は全く無い。もし何者かが彼女を無理やり風呂の水の中に沈めようとしたならば、彼女は何らかの抵抗をしたはずである。また、外部から何者かが侵入した気配もまったくない。

 当然、殺された作家よりも八歳も若い夫のフォーブスに嫌疑がかけられるが、動機も犯行の方法も不明では、起訴するどころか、逮捕するにも至らない。フォーブスは酔いつぶれて何も覚えていないと主張する。セリアには前の夫との間に大学生の娘がいた。葬儀のために英国からかけつけた彼女にガルナシアは質問をするが、恐ろしく寡黙な彼女からは、何の情報も得られない。

 今回ガルナシアは、始終葉巻をふかしている気障でお喋りな検事、フッサーリと組まされる。フッサーリとはどうしても馬が合わないガルナシアにはストレスの種である。また、殺されたセリアの夫も、極めて自己中心的な男で、ガルナシアは生理的に嫌悪を感じてイラつく。

息子たちがスキーへ入っている間、太りすぎの彼はダイエットを試みている。空きっ腹をかかえて、彼は何事にも集中できない。更に、彼は、クリスマスに起きた、前夫とその愛人による女性暴行死亡事件の裁判に、証人として出廷し、証言をしなくてはならない。大勢の人間の前で話すこと、それは学校時代からガルナシアが最も苦手としていることなのである。

今回のガルナシアはストレスの塊のである。

 

 進展しない捜査のため、セリアの死は事故死として処理されそうになる。ガルナシアは彼女の葬儀に出席する。そして、そのミサを行った、英国人の司祭から、事件解決の発端となる、貴重な情報を得るのである。

 クリスマスイヴの午後、司祭が教会に戻ると、セリアがひとりで教会に来ている。様子からして、何か大きな精神的な衝撃を受けているようである。司祭は彼女を部屋へ連れて行き、話を聞き、一緒に祈る。彼女の苦悩は子供にあった。彼女は、娘のために買ったクリスマスプレゼントを司祭にもう必要ないと言って渡し、教会を去っていく。一体、クリスマスに何が起こったのか。それが事件を解決する鍵であると直感したガルナシアは、更に亡くなったセリアの友人たちを訪ね、事件の核心に迫っていく。

 

 ふたつの話が並行して進む。殺された女流作家の話とは別に、クリスマスに起こったその友人と家族による暴行殺人の話が語られるのである。ガルナシアは事件の後、現場に駆けつけ、現在は証人としてその裁判に出廷している。このふたつの事件が、最後に絡んでくるのかと思うとそうでもない。

 そもそも、これが推理小説と言えるのか。殺人現場にいたのは夫だけ。外部から侵入の気配がない。書評で犯人をばらすのは憚られるが、今回は言ってしまってもよいと思う。この夫が犯人なのである。物語の興味は、動機と犯行の方法だけに絞られる。

 この小説はシリーズの中でも長い方。その大部分が、動機と、犯行の方法を探るための、ガルナシアと証人の会話と、ガルナシアの空腹とだらだらとした裁判の描写。私は中盤に少し退屈した。

 

 ガルナシアの武器は沈黙である。相手は彼の沈黙の重圧に負けて、自ら口を開いてしまう。ところが今回、その沈黙作戦が効かない強敵がふたり現れる。ひとりは、同じトリーニ邸の間借り人でミュラーいう九十二歳のオーストリア人の老婆。自分の興味のある話はベラベラと喋るが、興味のない話だと寝たふりをする。もうひとりは、殺されたセリアの娘。美しいが「ボッチチェルリの絵の中にいるような」無表情な娘で、大学生のくせにすぐに泣き出してしまう。上には上がいるものだという話。

 イタリアに移住した外国人が、よくナブの小説の主人公になる。結局、ナブ自身がそうであるから、描きやすい素材となのであろう。しかし、それらの「イタリアに魅せられた外国人」に対して、今回はガルナシアの目を通してナブは皮肉を述べている。イタリアからドイツに行く者は、少しでも早く祖国に帰ろうとするが、ドイツからイタリアに来る者は、少しでも長く外国に留まろうとする、と。

 なお、ドイツ語題の「フィレンツェでの誕生日」は、女流作家がちょうど彼女自身の誕生日に殺されたことによるものである。

 最後に、この物語は推理小説として読んではいけない。失望する。心理小説、社会小説のつもりで読むと面白い。