ポヨ子さんの手記、出発まで

 

ベティヴァツ小学校のクラス。皆裸足。

 

 今年に入り、我が家に来客があったときなど、わたしが夏にソロモン諸島へ行くという話題が、主に「ジョーク」としてとりあげられた。大抵の場合、来客は先ず「へえ」とか「まあ」とか「そう」とか反応し、その後「どうして」という質問があり、それに対する説明があり、それでその話題はお終い。来客たちはそれ以上知ろうとはしなかったし、わたし自身もそれ以上深くつっこもうとはしなかった。

 頭のどこかで、ソロモン行きの計画が、自分を変えようとしていることに、漠然と気がついてはいた。父は昨年のクリスマス休暇に島を訪れ、その場所について話をしてくれていた。ピジンという言葉が話されていること、電気や水道もなく、地球上でおそらく一番辺鄙なところだということ。そんな話がわたしの心のどこかを刺激した。都会の便利な生活を離れ、数週間そんな場所で暮らしてみるのも悪くはないのでは、何か得るものがあるのでは、わたしはそう思った。

 しかし、旅が具体的にどのようなものになるのか、正直考えたこともなかった。とにかく、今年の前半、わたしは忙し過ぎた。大学入学資格試験の一年目、フルートの試験、友達付き合い、その他その他のティーンエージャー特有の雑用もあり、正直、じっくり考えている時間などなかったのだ。

七月になり、それらの事項が片付くにつれ、ソロモン行きは、わたしの頭の中で「ジョーク」から「現実」にならざるを得なくなった。わたしは遅ればせながら準備を始めた。しかし、荷造りをしていても、日程を作っていても、わたしの頭の中に、これから数週間のことについて、具体的なイメージがさっぱり湧いて来ない。しかし、考えてみれば、どうしてイメージを作ることができるのだろう。十七歳の少女が、考えられる限りの遠くはなれた場所へ行くのだから。写真やドキュメンタリーを見たりしても結局ダメ。やっぱり、そこへ行くしかないのだと、わたしは思うようになった。

ともかくわたしは出発した。わたしの心の中には依然ソロモン諸島についてわずかなイメージがあるだけだった。父はソロモンにはテレビはなく、人々はラジオで英国のサッカー「ピレミアリーグ」の結果を聴いていると言った。わたしは旧式のラジオの前に集まる人々を想像した。父はまた、首都のホニアラと言えども、一本の道路と、数軒の店しかないと言った。わたしは埃っぽい道に沿って、数軒の小屋が建ち、その周りを木々が取り囲んでいる様子を想像した。

シンガポール経由でオーストラリアのブリスベーンに着いたとき、わたしは疲れ果てていた。暖かいところと聞いていたのにとても寒かった。それ以上に、知らない土地で、独りでホテルの部屋にいるという孤独感がわたしを苛んだ。

オーストラリアというのは、英国と似ているようで、全然似ていない奇妙な土地だった。皆英語を話すし、コーヒーショップから外を見ると、そこが英国だと言われてもおかしくない。しかし、どこかが根本的に違うのだ。そしてそれを説明するのは難しい。

 

校庭の雑草を刈る村人たち。

 

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