2)作品と自分との関係について

 

これまでの彼の生涯が、彼の作品の中にどのように反映されているのか。ここでも、彼は「自分は割れやすい氷の上で生活している」と述べているのが興味深い。

 

記者:

ご自分の犯罪小説を「最初は暗く、不透明で、圧倒されるように感じられる事象へ、主役たちが自分の外面やアイデンティティーを救うために進むべき事象へと巻き込まれていくこと」と記述しておられます。あなた自身がかつて同じような状況に立たれたことがあるのですか。

 

シュリンク:

どう片付ければいいのか、自分でもわからない状況はありました。一九六五年、ガールフレンドが東ベルリンから逃亡することに手を貸したとき、私が妻と別れたとき、息子が離婚の後私の元に来たときなどです。しかし、職業的に経済的に生き長らえていけるかと言う不安は持ったことがありません。私の人生はあまりも確固として直線的でした。しかし、私は自分が立っている足元の「氷」がどれほど薄いか知っています。私が何かの原因で働けなくなったら、私から創造力が枯渇したらどうなるのでしょう。どのようにそれに自分が対応していけるのでしょう。私の確固としたアイデンティティーはどうなるのでしょう。もう書けなくなったと嘆く作家に出会ったことがあります。空になり燃え尽きてしまったことがはっきりと分かるような学者にも。何度も自分自身に疑問を投げかけているのです。私と私の人生を共に支えているものは何なのかと。

 

記者:

もし辛いことを書くとすれば、作家活動をすることによる成功と個人的な充足を目の前にして、あなたが法学部のアシスタントとして働いた長い年月に体験したことではありませんか。

 

シュリンク:

いいえ、全くそうではありません。当時は楽しい毎日でした。学問の場で働き、学術的なエッセーや体系的な論文を書く、つまり最初は単なるテーマや素材として私の立ちはだかるものから形にしていくことは、楽しい仕事でした。そのときに学位論文を書き、教授の資格を得ました。また、私の仕事を支援してくれるだけではなく、話し相手になるアシスタントを捜しているような上司の下でいつも働くことができました。私は有り余る自由な時間を享受していました。

 

記者:

毎年毎年、二、三十年にも渡ってですか?

 

シュリンク:

何か物足らないとは思うこともありました。しかし、それは自分の仕事に対する強い反感ではなく、むしろ「何もかもが揃うわけはない」という感情ですね。

 

記者:

あなたは小説を書いているとき、ひとつの成熟過程のように自分の声を聞くと、一度おっしゃっていました。

では、小説を書いていないときのあなたは、まだ自分と一体化しているのか、驚きを持って、ひょっとしたらある種の違和感を持って自分の傍に立っておられるのか、どちらでしょうか。

 

シュリンク:

時々は自分自身驚き持って見つめています。学期が進み、講義をしているとき、自分自身の言葉が、あたかも中世の舞台の字幕のように口から出るのを見たように思います。そんなとき、この種のことを強く体験します。自分の話がよそよそしく思え、

「俺はここで一体何をしているだろう。」

と考えます。

他人とつきあっている状況においても同じようなことが起こります、真ん中に立ち、全能となり、なおかつ私自身であり在り続けるというような存在。以前は、

「こんなことは俺にできるわけがない。」

と考えました。そのうち私はやらなくてはいけないことは必ずやるようになりました。しかし、それは自然に内部から出てきたものではなく、努力を要しました。その後に疲労困憊している自分にいつも気がつきます。

 

記者:

はっきり「イエス」「ノー」を言うことを避けておられるように思いますが。

 

シュリンク:

法律家にはいかなる場合にも明白な「イエス」と「ノー」が存在します。それゆえにこの仕事が好きなのです。問題があれば、法律の場へ持ち込まれ、述べられ、解決されますから。

 

記者:

書くことはあなたにとって、何かの解決、精神の浄化のような作用を持っていますか。

 

シュリンク:

内面的には、テーマに対してより大きな内的な距離を得たと言うことができます。「朗読者」の第二世代の運命に対してのように。「精神の浄化」というのは大げさすぎるけれども、明るくする、心を静めるという作用はありますね。