3)子供の頃の体験について、父親について

 

厳格な神学者を父に、信心深い家庭に育ったシュリンク。その家庭と、父親が、彼の生涯に与えた影響について語られる。

 

記者:

既に子供の頃から書くことを始めたことは、純粋な想像、気晴らし、孤独からなのでしょうか。

 

シュリンク:

多分「憧れ」からでしょう。別の、もうひとつの生活への憧れ。時間旅行に対する憧れでしょう。歴史と物語はいつも私を楽しませてくれました。それがあれば孤独にはなりませんでした。書くことを純粋に「友人」と考えていましたから。

 

記者:

子供時代を「幸福だった」と述べておられます。しかし「幸福」という概念は、五歳から十五歳の子供として自分の存在を語るのに適当な言葉でしょうか。

 

シュリンク:

もちろんあまり適当ではありません。私の意味したのは大家族のことです。三人の兄弟、朝食、昼食、夕食の時に食卓で交わされる活発な会話、そんな点を私は好きでした。また学生時代、ひとつひとつをとれば悔いの残る経験も、楽しい思い出として持っています。多くにおいて、妨害されるよりは奨励されることが多かったという印象があります。

 

記者:

もっと小さいときもそうだったのですか。

 

シュリンク:

子供時代に既に難しいと感じ、今振り返ってみても諸問題の根源であると思われること、それは私の両親の家では、内的な人間性が厳しく受け取られていたことです。義務を果たし、良い成績で学校を出ても、何もしたことになりません。意図的に、いつも一番いいものを与えるということが正しい態度として認められていました。そしてそれを私は絶えがたい陵辱として受け止め、それを軽く受け止められなかったし、そこから逃げたり、逃げようと計画したりしていました。

 

記者:

あなたは「子供らしい」子供でしたか、それとも「子供らしくない」子供でしたか。つまり、明るく、活発な、遊び好きな、好奇心の強い子供でしたか。それとも、まじめな、早熟な、我が道を行くような子供でしたか。

 

シュリンク:

明るく、活発で、元気な、しかし同時に早熟な子供だったと思います。大人にとっていつも打撃となるような会話に影響を受けていました。だからいつも自分がそうであり、自分が思っているより、少し利口に見えるように振舞っていきました。父は神学者で、毎晩聖書の話をするなど、きわめて新教的な家庭でした。食事の後、家族全員が輪になって順番に聖書を一説づつ読んでいきます。一章が終わったら、父がそれについて話をしました。

 

記者:

今日、自分自身を見つめたときに、お父さんが目に浮かびますか。

 

どうでしょうね。父との関係はかなり独特なのです。私と父との関係は特に信頼に満ちたものでもなく、本当に機会を逸するほど近いものでもありません。兄弟たちは「おまえお父さんに似ている。」と時々言います。大学のセミナーで学生を前に座っていて、父もまったく同じようだったと思う状況もあります。多くのことにおいて私と父が歩み寄ることにそれほど困難を感じていたがゆえに、私と父がそれほど似ているということになります。体系的な教義的な考えの多くは父から学びました。父と同じくバッハと海が大好きですし。父と二人海岸を散歩できなくて、いや海辺に一緒に座っているだけでもよかったのですが、そんな機会がなくて残念です。

 

記者:

振り返ってみて、子供時代の終わり、大人の始まりと言える時点や事件がありましたか。

 

シュリンク:

一九六八年の五月です.当時私と父の間に激しい食い違いが生じました。父は神学の教授として、戦後ハイデルベルクの大学を形造り、学長として大学を率い、全てが崩壊するのを見ました。私は一九六五年以来もっぱらベルリンで生活し大学に通い、そこで私のガールフレンドが東ドイツから逃げてくるのを手伝いました。これらを両親は無責任だと思ったようです。両親との関係に決定的にひびが入ったのが数年後の私の離婚です。それは私にとって避けられないものでした。そのままでは生きていくことは不可能なことでした。私の両親にとって、離婚とは、考えに上ったことさえなく、父方も母方も敬虔な家系でこれまで誰も離婚した者はいませんでした。両親との関係、私が成長した全てのものとの関係が、そのとき決定的に変わったことを感じました。それまでは、父や母が私のことを思っていてくれることが、常にとても大切なことでした。それが突然どうでもよくなったのです。そんなに「どうでもいい」と感じたことはそれまでありませんでした。

 

記者:

そのことはどのような影響を与えましたか。

 

シュリンク:

確固とした決意を持つようになったことです。両親ではなく、良いことも、悪いことも、自分で決定して生きていかなければならない。今日まで、自分が子供時代と両親にどれほど影響を受けているか何度も知りました。しかし、離婚はその影響の範囲以外であり、人生の中で私が自分で責任をとるべき、職業上の選択であり、結果なのです。

 

記者:

それでお父さんのように神学を勉強されないで、法学を勉強さるようになったのでしょうか。

 

シュリンク:

「父親の仕事」、「魂の仕事」に入っていく気がないことは、いずれにせよ論議の余地はありません。

 

記者:

ナチス政権時代、お父さんはいわゆる「信仰告白教会」のメンバーでした。そして新教の基盤の上で、新教旧教をまとめる全教会的神学の弁護者でした。お父さんはあらゆる機会に、キリストの傍ではあらゆる教会が近づくことを強調されておられました。しかし、お父さんは意識的に「教会」について語られ、「宗教」については語られていません。

 

それは父の全教会的な地平が、キリスト教的な信条とそのバリエーションしか捕らえていないからです。ユダヤ教、イスラム教、仏教との関係は、そこでは何の役割も果たしていません。

 

記者:

お父さんのプロテスタント的、ルター的な教義が、どのように当時「非キリスト教的」と非難されていたユダヤ人の宗教や伝統に対応したのでしょう。お父さんはキリストの隣人愛をユダヤ人に対してどのように正当化したのでしょう。

 

私は父の中に非ユダヤ的な言葉を見つけたことはありませんし、父からその類のことを聞いたこともありません。教会がナチス時代においてユダヤ人に対して強く当たらなければならなかったこと、その義務に父も従ったことは明らかです。しかし、神がキリストというひとつの新しい集団を創設し、新しいものが旧約聖書にくらべてより真実に近かったことも確かです。

 

あなたは法律学者として、お父さんの考えを、キリストが問題と探求の過激性へと人間を解放するがゆえに、全ての学者が真実を認識することは、キリストの教えの中にのみ可能であると判断されるのですか?

 

いいえ。私の父は若くして一九二〇年代初期の知的な潮流に影響をうけていました。そして苦しみ、自分を見失い、その時代の世界の苦痛に捕らわれていると感じていました。宗教的に発展していく体験は、父にとって解放のようなものだったに違いありません。明快さ、平静さ、科学への解放です。この引用からもそれは分かります。