Die Taube「鳩」

Patrick Sueskind パトリック・ズースキント

1987 一九八七年

 

 

<はじめに>

 

「ボタンの掛け違い」という言葉がある。ひとつボタンを掛け違うと、次から次へと狂ってくる。人間が、落ち込んだり、鬱病になったり、果ては自殺を企てたりするとき、最初は本当に些細なことが原因なのだが、それが次から次へと悪い方向へ波及していき、終にはニッチもサッチもいかない状態に人間を追い詰める、と言うことも多いのではないかと思う。(もちろん、最初の最初から、大きな悩みを背負っておられる方も多いとは思うが。)とにかく、些細な出来事によって、どんどん狂わされていく人間の物語である。

 

 

<ストーリー>

 

パリの安アパートに住むヨナタン・ノエルにとって、彼の人生観を狂わせる、最初のきっかけとなったこと。それは、朝起きて、共同便所に行こうとしたときに見た、一匹の鳩であった。

戦争中、父母と別れ、遠い親戚に預けられ、ひとりきりの妹とも離別し、インドシナ戦線に兵士として赴き、傷を負い、不幸な結婚、離婚を経験し、それらから逃れるようにパリへ出てきたヨナタン。彼は、ひたすら、平穏な生活を望んでいる。そして、パリへ出てきてから三十年近く、彼は貧しいなりにも職を得て、平穏な生活を送ることができていた。彼の住んでいる、「三メートル四十センチX二メートル二十センチ」の部屋は、彼を癒してくれるかけがのない寛ぎの場所であり、恋人のような存在であった。

ともかく、その朝、彼は部屋のドアの前にいる鳩を見て、心臓が止まるくらいに驚き、部屋に逃げ戻る。彼が、何故鳩に対して、心臓が停まるほどの嫌悪、恐怖を感じるのか、説明は何もない。理由は不明だが、要するに彼は「鳩が死ぬほど嫌い」なわけである。

部屋の外に出られない彼は、部屋の流し台で我慢できないでいた小便をしてしまう。「一回だけなら、やらないのと同じ」と彼は自分に言い聞かせるが、それだけど、もう、深い自己嫌悪に陥っていた。

銀行のガードマンである彼は仕事に出なくてはならない。鳩のいるアパートにはもう当分住めない判断した彼は、当分ホテルに住むつもりで、着替えをトランクに詰め、鳩から身を守るために、八月の暑い日にもかかわらず冬のコートを身に纏い、傘を持って廊下に出る。そして、廊下を駆け抜けて、階段を降りた。そして、出口で、彼は門番のロカール夫人に、鳩がいることに対して文句を言うのであった。

 

その日のヨナタンは、まさに「ボタンの掛け違え」の一日。一事が万事上手くいかない。立っていると汗が止め処もなく流れ落ちる。銀行の頭取の車が着いた時に門を開けるのを忘れる。アパートに戻れないので、公園のベンチで昼食を採るが、その際、ベンチから出ている釘にズボンをひっかけて、大きなかぎ裂きを作ってしまう。それを修理に行くと、二週間かかると言われる。(彼は何とかそれをセロテープで補修するのであるが。)

悪いことが重なるにつれ、彼は何もかも、否定的に、悪い方へ悪い方へと考えてしまう。ついには、彼は、自分はこのままでは、辺りを徘徊するホームレス、クロチャーと同じ運命になってしまう、とまで思いつめてしまう。

そのうち、彼は目にする全てのものに腹を立てはじめる。向かいのカフェのウェイターに対して、辺りにたむろする観光客に対して、走る車に対して・・・

仕事が終わってから、帰る家のないヨナタンはパリの街を歩き回る。疲れ果てて安ホテルに戻った彼は、そこで粗末な夕食を食べ、寝入ってしまう。その夜遅く、パリに雷雨があり、雷の音で彼は目を覚ます・・・

ストーリーはこの辺りまでにしておこう。

 

 

<作品について>

 

この物語を読み終わって、まず、何となくカフカ的だと思った。例えば、「ヨナタンは何故鳩を嫌うか」その点について、最後まで説明はない。最後に、ヨナタンが何故アパートに戻る気になったのか。分からないようで、分かったようで、やっぱり分からなうちに、話が終わってしまう。謎が謎を呼ぶのであるが、それが解決、説明されていないのである。この欲求不満は、カフカの小説の読後感と似ている。

 

安ホテルの一室で、夜半、雷の音で目を覚ましたヨナタンは、一瞬自分がどこにいるのか分からない。

「ここは自分の伯父の家の部屋でもない。両親の家の子供部屋だ。いいや、子供部屋じゃない。地下室だ。お前は両親の家の地下室にいるんじゃないか。お前はまだ子供だ。大人になってパリでガードマンをやっているなんていう、馬鹿な夢を見ていただけなんだ。外はまだ戦争で、お前は、捕らえられ、閉じ込められ、忘れ去られただけなんだ。」(95ページ)

このヨナタンの思考、非常に共感が持てる。出張の多い私は、ホテルで目覚めたとき、そこ一瞬どこか分からず、両親の家の、子供時代を過ごした二階の三畳間だと思い込んしまったことがあるから。

「自分はまだ子供で、大人になった夢をみていただけなんだ。」

中年になり、自分の限界を知り、終末が近づいてくると、誰もがそう考えたくなるのだろう。

 

物語の冒頭、戦争中に彼の母がいなくなった時のことが書かれている。(何故、戦争中、彼の父母が突然いなくなったのか、これについても明快な説明はない。)彼は夏のある日、夕立の後の道を、水溜りを見つけてはチャプチャプとその中に入りながら帰ってくる。そして、母との別れを知るのである。

そして、物語の最後、夜明け前、安ホテルから外に出たヨナタンは、雷雨に洗われた道路で、水溜りの中をはねを上げながら進んでいく。

この辺りから、「何故、ヨナタンはアパートに戻る気になったか」納得の行く説明を見出そうとしたのだが。やっぱり難しい。