マルコ・ポーロ空港

 

夜のヴェネチア

 

 二〇〇四年十二月二十六日、我々家族一行はヴェネチア(ベニス)に向かった。僕と妻、十七歳の息子、十六歳と十四歳のふたり娘の五人だ。ロンドンから一時間半の飛行機の旅。マルコ・ポーロ空港に着陸する際、飛行機の右側に座っている僕とスミレからだけ、ヴェネチアの街が見えた。薄い緑色の水の上に、オレンジがかった建物が並ぶ島が浮かんでいる。水面の薄い緑色は翡翠(ヒスイ)を思い起こさせる。島の中で逆S字型にカーブするカナル・グランデ(大運河)もはっきりと見えた。空から見るヴェネチアは思ったより小さく、イタリア本土から思ったより遠く離れていた。そして、本土から掛かる一本の長い橋が、真っ直ぐな黒い線として見えた。

 ヴェネチアに来るのは四回目。最初は二十歳のときリュックサックを担いだ貧乏旅行者として、二度目はヨーロッパに赴任した夏休みに妻と二人で、三度目はイタリア出張の合間に。そして今回、家族郎党を率いてのヴェネチア入りとなった。ここ数年、子供たちが大きくなるにつれ単独行動が増えたこと、家族の誰かが病気になったことなどで、家族五人揃って休暇に出かけることがなかった。実に久しぶりの家族全員旅行だ。六泊七日ヴェネチアの旅。しかし、一週間もヴェネチアにいて何をするのだろう気もする。ティーンエージャーを三人引き連れての旅行は、そう単純なものじゃないことも確かだ。そしてお金がかかることも。妻とは、ガツガツせずのんびりと過ごそうと、旅行前に話していた。

 飛行機はマルコ・ポーロ空港に着陸した。マルコ・ポーロはご存知のように旅行家で、中国を訪れ「東方見聞録」を記している。その中に日本は「黄金の国チバング」として紹介されている。そして僕はその時まで知らなかったのだが、彼はヴェネチア人だったのだ。本によると、一二七一年ポーロはヴェネチアを発ち、当時モンゴル人の国家「元」の支配下にあった中国に達し、その皇帝フビライ汗に謁見し、出発してから実に二十四年後にヴェネチアに帰着した。「東方見聞録」は直接彼の手になるものではなく、後年彼の話を別の人物が聞き書きしたものだそうだ。二十四年の旅の間、彼は故郷に戻れることを常に信じていたのだろうか。僕はそれを知りたい気がした。

 雨上がりのマルコ・ポーロ空港に降り立った我々は、入国審査に向かう。五人分のパスポートをドサッという感じで入国審査官の前に置く。審査官は一番上のパスポートを広げた。それは末娘のスミレのものだった。スミレは「モニカ」と言うヨーロッパ風の名前も持っており、パスポートには「モニカ」が先に記載されている。

「おー、モニカね。イタリア人の名前だ。」

と審査官は言った。そう言えば、イタリアにはやたらとモニカという名前の女性が多い。昨年スキーでトリノへ行ったときも、ゲレンデのあちこちで「モニカ」「モニカァー」と呼ぶ声が聞こえてくるので、戸惑った覚えがある。イタリア人の女性の半分は「モニカ」なのではないだろうかとさえ思う。審査官のコメントはそれだけ。彼はハンコも押さずに五冊のパスポートをドサッと返してくれた。我々は空港から外に出た。

夜の散歩の途中で

 

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