十七歳の自叙伝

 

現在の私による前書き

これは私が十七歳の時に書いた自叙伝である。完結はしていない。内容も稚拙である。が、四十歳を超えた今、子供の頃の記憶が薄れていく中で、当時の私の姿をかなり忠実に伝えていると思われるので、一切の加筆、訂正をせずに紹介することにする。

当時、十七歳という若さで、定年退職者よろしく自叙伝を書き始めるにあたって、何十年か経ってそれを読み返すことを念頭に置いていた、つまり、今の状況を予想していたように思える。多分、当時の私は、歳を経るとともに変わっていく自分を予想し、自分が当時考えていたことをが、年月とともに消えていくことを恐れたようだ。十七歳で、今考えるとそれほど大それたことを考えていたわけではないのだが、当時はもちろんそれが全てだった。そして、十七歳の私はその時の全てが、いずれ自分の心の中でも忘れ去られてしまうのを残念に思ったのだろう。

西暦二千年も近づいた今、(などと書いてみたが、余り関係はない)当時の自分を忘れないでくれという、「十七歳の私」の希望をここでそろそろ叶えてやろうと、「現在の私」は思った。蔵の中から発見された先祖の書付けを公開することに似た心境と言えようか。実際、私はこの自叙伝の書いてあるノートを、昨年現在の家の屋根裏の物置で発見したのである。

十七歳の当時、私は生まれた京都にいた。これから紹介する文章は、京都の自宅の、当時の自室、物置を改造した三畳間で書かれたものである。窓からは、細い道を隔てた向かい側の、やはり棟割長屋の物干し台に、洗濯物が見えていた。夏は西日が暑かった。そこへタイムスリップするつもりで書き始める。厳密に言うと、書き始めるというより、手書きのノートを写し始めることにする。最初にも書いたが、十七歳の私の気持ちを尊重し、一切の加筆、訂正はしないでおく。

 

序章

人は自分の幼い時を回顧して、どのように思うのであろうか。

僕の友人にこういうやつがいる。「今の自分より、幼い頃の自分の方がはるかに純粋で、ひたむきで、妥協を許さない確固たる態度であった。それに比べると、今の自分は怠け癖がつき、何事に対しても全力を尽くせなくなってきた。もう一度、あの頃の幼い自分に帰りたい。」彼が子供の頃の話をするとき、彼は驚くほど生き生きして見える。僕はその友人から、虫取りなど自然の中で過ごした経験を何度も聞いた。そんな彼を羨ましく思う。自分では「怠け癖がついた」と言うものの、僕の目から見ると、今でも彼は、友人の中では最も純粋で、正義漢で、自分を厳しく律することのできる人間だと思う。

僕には、幼い頃に帰りたいなどという気は全く起こらない。これは、おそらく、生涯変わらないだろう。幼い頃、僕は周りの大人の機嫌ばかり気にして暮らしていた。太宰治の「人間失格」を読んだとき、主人公の幼年時代が、全く自分のことのように思えて、たまらなく嫌な気分になった。これまで、自分で自分に言い訳を作り納得させてきた、自分の中の一番嫌な面を、はっきりと見せつけられたような気がしたからだ。

幼い日、僕はどうしようもないほど内向的だった。また、打算的で、常に損得勘定をしてから行動していた。しかし、内向的、打算的であることを他人に見せたくないという虚栄心も人一倍強かった。そのため、他人の前では無理矢理、明るい、積極的な子供として振る舞っていた。「人間失格」の主人公の演ずる「お道化」と、自分でも驚くほどそっくりであったと思う。他人が自分の前から去ったとき、心と行動の隔たりに対するたまらない自己嫌悪と、虚無感と、自分を本当に分かってくれる人間に対する人恋しさに襲われたものだ。

ああ、あの頃の自分を思い出したくもない。でしゃばりで、軽薄で、無責任で。冗談を言っても、それは誰かの盗作か、巧妙な計算のもとに発せられたもので、独創や、ユーモアのかけらもないものであった。他の子供より少し優れた知識をひけらかし、それができなくなると、挙げ句の果ては嘘を嘘で塗り固めた。その頃の僕は、実に簡単に嘘をついた。また、友人の家に行った時など、気に入った物を黙ってポケットに入れるといった行為を平気でやっていた。

思い出したくない、あの頃の自分を。子供の頃が一番「正直」ならば、今の自分の姿は、幼い頃の自分を無理に押し隠しているにすぎず、僕の本来の姿は、あの、思い出すのも嫌な幼い自分なのか。そんなのは断じて嫌だ。

生まれながらの性格も、その後の理性の努力によって作り変えることができるものと信じたい。

 

考え深い人間

小学校から中学校にかけて、そのことが良い悪いの判断はともかくとして、僕は先生たちのお気に入りで通っていた。授業中はよく手を挙げ、先生の気に入るような発言をした。大概の場合、先生が生徒からどのような意見を引き出したいか、手に取るように分かったのである。その通りの意見をいうと、どの先生も少しほっとした顔をしたのを覚えている。しかし、昔から、そのような発言に独創的なものはないと決まっているのだが。ともかく、小学校の頃、いわゆる成績はトップクラスであった。

しかし、小学校六年の時のことだった。ある女の子が、僕のいいかげんさをずばりと突き刺すような発言をした。その瞬間の狼狽と、それを面子にかけて取り繕おうとしている自分の醜い顔を忘れることはできない。

それは学級委員会の席上だった。その女の子は普段は大人しい子であった。今考えると、その子の発言は僕に対してなされたのでなく、おそらく一般論として発せられたものであろう。しかし、当時は、その言葉が僕に対するものであると信じて疑わなかった。

そのとき話し合っていたことは、「掃除をまじめにさせるための注意のしかた。」という、小学校の学級委員会ではよくあるテーマであった。 彼女の言いたかったのは、「大勢に対して雑な注意を与えるよりは、能率は悪くても、一人一人をじっくりと説得する方が尊い。」といった内容だった。僕はその直前に、少しいい格好をするために強硬派ぶって「限られた時間内で、大勢に注意を与える時、能率を上げるために、暴力に訴えるのもやむなし。」という発言をしていた。いま考えると、僕の発言は、大人の社会の醜い能率第一主義の代表選手のものだった。なによりも、自分の性格、体力では、「暴力に訴える」などは到底できないくせに、目立ちたいためだけにした発言だった。

それ以後、僕はその意見をいった女の子を極度に恐れた。そして、自分自身の中で苦しみ始めた。

自分は今まで授業やクラス会で何度となく発言した。それらの意見の中に僕でなくては言えない独創的な考えや、聞いている相手を感動させるような意見があっただろうか。 ごくありふれた意見。他人の意見の受け売り。心にもないきれいごと。他の皆が自分に対して恥ずかしくて言えないようなことを、僕は恥知らずにも言い続けてきただけなのではないだろうか。

そう思い出した日から、僕はなんとか自分の「悪癖」を直したいと思った。それは、僕にとって初めての、自分で自分の性格を変えるという、苦しい努力であった。まず思いついたこと、それは授業中のべつ手を挙げて発言していたのを、極力やめるということであった。今まで、思いついたことはすぐ口に出してきた僕にとって、それは苦痛であった。知らず知らずのうちに、またでしゃばってしまった後、泣きたいほどの自己嫌悪に襲われた。

自分を集団の中に埋没させようという努力は、小学校六年頃から、中学にかけて続けられた。そして、日が経つうちに、その努力は「実」を結び、手を挙げて発言することや、何かに立候補することを忘れていった。つまり、目立たない生徒のひとりになった。 自分を覆っていたベールが一枚ずつ剥がされ、最後に残ったのは消極的で内向的な自分であった。僕は、忘れられた存在になっていったが、それでも昔のあの日の自分よりはましだと思い、自分でその結果に満足していた。

「考え深い」。ぼくはこの言葉にどれほど憧れたことか。自分も一度でいい、「考え深い」人間と呼ばれてみたいと思ったことか。そのころ、僕は学校で、自分の殻に閉じこもりがちだった。心の奥底では皆と一緒に騒ぎたいという心理があるのだが、それ以上に自分を無理に殻のなかに引っ込めようとする心理のほうが強く働いた。

学校の成績は当然のことのように下がった。トップクラスを滑り落ち、たまにいい点を取ることはあっても、成績は高校一年の頃まで着実に下がり続けた。それでも、少しくらい成績は悪くても、小学校の頃のあの曲がりきった性格を持ち続けるよりはましだど思い、自分自身納得していた。学校の成績の下がった原因は、自分の性格の矯正の副産物ということだけではない。小学校時代、僕は特別に勉強をせずにいい点をとり続けた。そのことから、こと勉強に関しては、自分は他の奴等とは違うのだという意識が芽生えた。努力をしなくても何とかできるような気がして、怠け癖がついてしまっていた。それだけならまだいいのだが、勉強を一所懸命にやるのは「できない奴等」があがいているだけにすぎない、そんなエリート意識が染み付いてしまった。よい成績を取るのには努力が必要であることに気がついたときには、遅かった。僕は、それまではるかに自分の方が上だと確信していた者に、どうしようもないほどの差をつけられ、後塵を仰いでいた。「考え深い」人間になろうとすることの代償は大きかった。

 

死について

幼い頃から、そして高校生になった今も、夜など独りになったとき、「死」をふと感じて、どうしようもない、たまらない恐怖を感じる。死んでしまえば、永遠に何も残らない。僕の意識も消えてしまい、地球が滅び去り、その後限りなく長い時間が流れても、決して再び、僕という意識が甦ることはない。文章にしてしまうと、実にあっさりしているが、その「永遠」の重さを肌で感じたとき、傍にあるものを手当たり次第壁に投げつけたくなるような、誰かの胸でおんおん泣きたくなるような衝動にかられるほど、底知れぬ恐怖を覚える。

普段、僕は自分という一個の人間と、ひどく客観的に対峙している。言い換えれば、自分の行動を一種の連続した映画の場面のように見ている。そして、「僕」という映画が終わったとき、それは僕の死ぬ時なのだが、平気な顔をして映画館を出て、また普通の生活を送れるように錯覚しそうになる。しかし、その映画が終わったときは、見物人である自分も消えてなくなるということに気づく。どんなに長い映画でも終わりがあるように、死も必ずやって来る。それは、決して遠ざかることはしない。少しずつではあるが、着実に迫って来る。今の僕にとって確実に分かっていること、それは、一秒一秒死に近づいていることだけなのだ。その死が十年先なのか、それとも一秒先、今次の字を書こうとした瞬間に迫っているのか、僕には分からない。

「死」は必ずやってくる。そして、死んだ後の「無」。それはいつまで続く? 「永遠」に。地球が滅び、その後いかなる世界が展開されようとも、「僕」という意識は永遠にこの宇宙に存在することはない。今その恐怖を意識的に作り出そうとしてもできない。それは、不意にやって来たとき、最も恐ろしい。他人に語って聞かせても、その恐怖の万分の一も伝えることはできない。その恐怖に襲われたとき、誰かを抱きしめたい、という衝動にかられる。思い切り強く。幼い頃は、その抱きしめる、当時は抱きつく相手は母親であった。それがいつの頃から、女の子に変わっていった。ところが、それはその時々に一番好きな女の子ではない。一番優しそうで、僕の気持ちを汲んでくれるような子。しかし、そういった相手を本当に一番好きというのかもしれない。

最近は、昔に比べて、それほど「死」を意識していない。発作的な恐怖に襲われることも以前に比べると少なくなった。意識しないようにする癖がついて、頭脳の中で死について考えることへの拒絶反応ができてしまっているせいか。それとも、以前より「生きがい」が増えて、「死」の這い入る隙間がなくなってきたせいなのか。いずれにせよ、死について考えずにすむことは、心の健康にとって良いことだと思う。

最後に、前述の「自分に厳しい」友人の、小学校時代の作文の中にあった一文を引用しておこう。小学生がこんなことを書いたとは今でも信じられない。彼は天才ではなかろうか。

「動物の中で死を意識するのは人間だけであり、死ぬまでの時間を充実させるよう努力するのも人間だけである。」

 

体力とは

幼い頃、僕は肉体的にも不健康であった。小さいときから、家の中でごろごろして暮らすのが好きだった僕は、胃腸が弱く、年に三、四回は必ず腹を壊して学校を休んだ。風邪は年がら年中ひいていた。僕の赤ん坊の頃、母親がつけていた育児日記を見つけだし読んでみた。「何月何日、元博、風邪をひく」、「何月何日、元博、風邪気味」、そんな記述の繰り返しである。赤ん坊の頃、風邪をひかずに健康で過ごした日など数えるほどしかない。ひょろひょろとして、吹けば飛ぶような存在であった。身体の不健康は、消極的、依頼心が強いなど、精神的にも影響を及ぼしていたに違いない。

家で独りでいるとき、よく卑猥な空想に耽っていた。小学校に入るか入らないかの頃からセックスに興味を持ちはじめ、家に独りでいるときなど、今から考えると不可解な行動をして、自分で悦に入っていた。学校へ行くと、女の子が気になり、そっちの方ばかり見ていた。精神的にひどく早熟であったようだ。中学校に入る頃から、周りの同級生たちもそういう僕の性格に気づき始め「あいつはいやらしい。」という噂も立つようになった。夜寝る前、布団の中で卑猥な空想に耽ることもあった。しかし、不思議に罪の意識はなく、それが毎日楽しみの時間だった。

小さいときから家のなかに閉じこもっていたので、当然、運動能力は非常に劣っており、体育の授業では、皆のお荷物的存在だった。とにかく、何をやらせても不器用で、無理をしてやろうとすると、変なところに力が入ってしまう。見ている者にとってはずいぶん滑稽であったに違いない。小学校のときは、勉強では誰にも負けないという自負があったので、余計に体育の時間はみじめに感じ、体育の時間の後は、正直絶望感におそわれた。特に、僕は敏捷性に劣っていて、ボール運動、スキーなどはまったくだめなのであった。学校からのスキー教室の際、担任に「へっぴり腰のおにいさん」と呼ばれ、ずいぶん傷ついた。スキーなどもう二度としたくないと思った。

運動に対する劣等感は、十七歳になった今でも尾を引いており、これからも生涯、運動能力にかけては引け目を感じながら生きていかなくてはいけないだろう。それは、ほとんどあきらめにちかいものである。

しかし、自分では少しでもなんとかしようと、一応努力はした。自分を向上させたいなどというのが目的ではなく、恥をかきたくない、何かひとつでもいい格好がしたいという気持ちからであった。

当時、夏休み中、小学校のプールは毎日子供たちに開放されていた。プールに行くとカードにスタンプを押してもらえた。そして、夏休みの後、校内水泳大会の場で、たくさんの判を貰った者、つまり数多くプールを利用した者が表彰されることになっていた。ぼくは、その表彰が目的で、せっせとプールに通った。最初は水の中で目を開けるのが恐くて、顔を上げて犬かきしかできなかった。小学校四年生の夏、天気のいいある日、水の中で目が開いた。水色の光の中にプールの端の梯子がぼんやり見えた。きれいだとおもった。それはまったく新しい世界であった。その日から、顔をつけて平泳ぎができるようになった。その後、毎日、平泳ぎでとにかく長く泳ぐ練習をした。こうして、小学校卒業の頃には、唯一水泳だけはクラスで半分より上であるという自信をつけたのである。

中学校に入り、僕は迷わず水泳部に入り、初日のプール掃除の日から、毎日必ず練習に参加だけはした。小学校の頃の担任であった先生に「水泳部に入りました。」と言ったところ「君は絶対に文化部に入ると思ったよ。」と驚かれた。

一年めは、順調に記録も伸びた。中学二年の校内水泳大会では、二百メートル平泳ぎで二位を二十五メートル以上引き離してゴールインをした。二十五メートルプールであったため、僕が泳ぎ終わった時、他の者はまだ誰も最後のターンをしていなかったことになる。気持ちのいい出来事であった。しかし、中学二年の後半から、いくら練習しても記録は伸びなかった。練習すればするほど、自分の体力のなさをあばきだす結果となった。また、僕の学年に部員が二人しかいなかったので、自動的に僕がキャプテンになってしまい、一年下の部員との間がしっくりいかなくなった。中学三年になると、毎日練習にはでているものの、半ばあきらめの境地で泳いでいた。

結局三年間、ほとんど毎日練習をしながら、大会では一度も決勝レースに残れないどころか、予選レースでびりを免れるのが精いっぱいという情けない結果が続いた。練習でもともと遅い上に、本番にはまた一段と弱かった。また、水泳以外の種目は一向に上達せず、相変わらず体育の時間のお荷物状態は解消されなかった。周囲のものは、半分の練習量でどんどん上達していった。劣等感は、一層深まり、体育の時間の後泣きたい気持ちになったことも一度や二度ではなかった。

そんななかで、暗闇の中の灯かりのように、一筋の希望をつないでくれたものがある。 それは中学校で毎年行われる、雲ヶ畑往復二十五キロ耐久レースだった。雲ヶ畑というのは、京都市内より北へ山を幾つか越した、鴨川の上流にある部落である。そのレースは能力に応じて走っても歩いてもよく「能力遠足」と呼ばれていた。全校生徒が参加し、結果は学校通信に印刷して配られた。

中学一年の時、僕はまったく思いがけなく学年で一位になった。秋になりプールが使えなくなった後、水泳部の練習で毎日走っていたのがよかったのだろう。折り返しを過ぎて下り坂になると調子が出た。大きくカーブした道の先に三人が見えた。それが先頭だった。前に目標があるとまた一段と調子がでるもので、あっという間に彼らに追いついた。三人はいわゆる運動の「できる」生徒であり、三人で一緒に一番でゴールしようと決めていたらしい。そのうちの一人が、追いついた僕を見て、

「おまえ、本当に折り返し地点を回って来たんやろな。」

と聞いた。身体の弱い生徒は、折り返し前に引き返すことが認められており、実際、僕はその「身体の弱い」生徒であると理解されても仕方がなかった。

「当たり前や。」

僕は答えた。

「俺らは一緒にゴールしよう言うて走っとんねん。おまえも一緒に来るか。」

「うん。」

そういう会話があって、しばらく四人で一緒に走った。そのうち、一人が、

「ちょっと腹が痛とうなった。スピードを落としてくれへんか。」

と同走者に言った。先ほどのちゃんと折り返してきたかと言う言葉にかちんと来ていた僕は、

「ほな、先に行くは。」

と、三人を残して猛然とダッシュをした。そして最後の数キロを独走してゴールした。後で、三人から、

「あいつは、一緒に走ると言っておきながら、腹が痛くなった友達を見捨てて先に行った。裏切り行為だ。」

という非難が出た。僕もそれを認めざるを得なかった。しかし折り返し云々の言葉に憤慨した僕は、それほど悪いことをしたとは思わなかった。皆予想外の一位にいろいろと理由をつけたかったのだろう。嬉しさは大きかったが、「裏切り行為云々」の非難で心の中に何か晴れないものが残った。来年こそは、誰にも何も言われないで勝とうと誓った。

翌年は、その行事の前日から異常に興奮し、優勝を意識して走った。昨年に続き後半追い上げたが二位に終わった。中学三年のときは三位と、計らずも学年と同じ順位となったが、その結果に僕は大いに満足した。生まれて初めての、体力面に関する唯一の誉れであった。優勝者として自分の名前の載っている学校通信を今でも大切に保存している。

 

友人たち

小学校の頃、かなり仲良く付き合っていた友人とは、もうほとんど話さなくなってしまっている。今仲良くつきあっている友人は、ほとんど中学校以降に親しくなった者ばかりである。今でも付き合いがある友人で最も古いのは、同じ陸上競技部で棒高跳びをやっているやつで、そいつとは、小学校の入学式の午後、自転車に乗っていて道で偶然会った。

「おまえ、一緒の組やなかったけ?」

と言う最初の会話もよく覚えている。現在、同じクラブなのでそいつとは付き合っているが、最初の出会い以来、ずっと仲が良かったと言うわけでもない。

小学校の頃は、僕は誰とでも話す性格で、親しい友人もたくさんいたが、小学校の頃というのは不思議なもので、それまで親しくしていても、クラスが変わると疎遠になるという、一時的なものが多いようだ。また、低学年の頃は、女の子とも分け隔てなく話し、手をつないで帰ったり、家へ遊びに行ったり来たりして、ごく気軽につきあっていた。しかし、六年生頃になると、男の子は極度に女の子を意識し始め、僕も他の連中から冷やかされるのを怖れて、女の子とはほとんど話さなくなった。内心は女の子と話しをしたくてうずうずしていたのだが。ともかく、その頃は、友人について真剣に考えもせず、あまり無茶をしない気の合う男の連中と無意識につきあっていた。

前にも述べた通り、小学校六年から中学にかけて、僕は自分の無責任でおしゃべりな性格に悩み、自分の殻に引きこもろうとする時期があった。その頃は、クラスの他の連中と疎遠になり、休み時間になっても、話す相手を探すのに苦労することがしばしばあった。中学の頃「Xさんからの手紙」といって、差出人不明の手紙をクラスの誰かから誰かに書くというゲームをしたことがある。その時の僕に対するコメントを覚えている。

「あなたは、もっと皆の間に溶け込むべきだ。小学校時分のあの活発なあなたに比べると、いまのあなたはとてもいじけている。」

そんなことを書かれた。もうその頃には、積極的な行動の仕方も忘れていた。

そんなある日、また転機が訪れた。言いようのない疎外感、孤独を感じた。いや、それまでもずっとそれらを持ち続けてきたのだが、ある日我慢ができなくなったと言うべきであろう。独りでいるのは寂しいことだ。それも、好んでなったわけではなく、自分の性格に悩んでいるうちに何となく知らない間に孤独の真っ只中にいたのである。僕は、中学三年頃から、再び積極的に外へ出て行くように努力し始めた。自分でも、何となくぎこちない行動であったが、その甲斐があって、中学校を卒業する頃には気軽になんでも話せる友人が何人かできた。それらの友人は、その後の僕の人生で重要な役割を果たすことになる。ともかく、その数人だけが、小中学校九年間での成果であった。中学も後半になるまでは、友人関係の暗黒時代と言ってよかった。

 

ある女の子と空想物語

僕は精神的に、特に女性を意識すると言う意味では早熟だった。幼稚園のころ、早くもある女の子が好きになった。 丸顔の可愛い子であった。夜、布団に入ってから眠る前に、その子を主人公にして色々と物語を創って独りで楽しんだ。彼女とは、小学校が別だったので、小学校一年のとき道で会って以来ずっと会っていない。今、偶然道ですれちがってもきっと分からないだろう。それから、一、二年はその子が僕の意識の中でかなり大きな空間を占めていたが、ずっと会わなくなるに連れて次第にその空間は狭まり、いつしか小さな固まりになった。

小学校三年生のころ、僕の空想物語の主人公になる女性が変わった。小学校の同じ学年、クラスの違う女の子だった。それは、いつ、どこであったかは記憶にないが、その女の子を初めて見たときの新鮮さは今も忘れることができない。その子は、少し上がりめの輪郭のはっきりした目と、どこか独断的で冷たい表情を持っていた。現在に至るまで、その表情は僕を捕らえて離さない。それ以来、学校で一同に集まることがあれば、僕は常にその子の姿を目で追っていた。日本中で一番可愛いと思った。ちょっととっつきにくい感じのする子だったが、それがまた憧れの対象としては似合っていた。

夜眠る前に、その子を主人公に色々な物語を創った。その中で、彼女はお姫様のようであり、万能選手であった。しかし、それは単なる空想ではなく、テレビドラマのように綿密に考えられた筋を持っていた。また、僕はその空想が現実の社会と矛盾しないように最大限の努力をはらった。その子の家族構成、住んでいる家の間取り、果ては持っている洋服の種類まで、何から何まで綿密に空想した。何年にも渡ってそんなこと続けた結果、舞台になっている町の地図を描けといわれたら、すらすら描けるくらい、ほとんど現実に近い世界が出来上がった。舞台になっている家庭の家族構成もここ五、六年変わっていない。日本中の町という町を捜し回わったら、本当に僕の空想と同じ町がどこかにあるのではないかという気がする。その空想の世界には、不思議に僕という人間は出て来ない。せっかくの楽しい空想の世界に、僕という優柔不断な、興ざめした男を登場させることは、僕にとって耐え難いことだったのだろう。

話が空想の方にそれたが、現実はその子を、遠くから眺めているだけだった。その子が好きであることを、長い間僕は決して誰にも言わなかった。その子と喋りたいと心底思った。しかし、その機会は訪れなかった。五年も、六年もそんな状態が続いた。その間に、その子は次第に偶像化され、神格化されていった。とにかく、その子は僕の心の支えであったことは確かだった。

中学も後半になると、やっと親しい友人もでき、心の内を漏らすようになった。初めてその子のことを話したのは、理科の時間に横に坐っていた、でっぷり肥ったおばさんのような女の子だった。そのあと、僕が憧れているということが、相手の女の子にも伝わったらしいが、僕はその子に対して沈黙を続けた。僕は、自分でその子は自分にとってかけ離れた存在であると思い込んでいた。

その頃の、その子に関する記憶は断片的なものばかりだ。その中で一つ最も印象に残っていることを書き留めておこう。

中学二年生の夏休み、林間学舎で志賀高原に行った。その時、僕は班長だった。(小学校の頃、よく学級委員をやっていた名残で、当時まだ、「長」とつくものに選ばれていた。)夜、就寝前に班長のミーティングがあり、そのとき僕は、同じく班長だったその子にレポート用紙を一枚あげた。そして、当然のことながら、その子は「ありがとう」と言った。ただそれだけの話である。その子のちょっと高くて変わった声が、自分に対して発せられたのだと思うと、その場に居ても立ってもいられないような興奮を覚えた。

とにかく、そんな調子で、その子と個人的に話すことなど思いもよらないままに年月が過ぎていった。その子を知ってから、高校に入るまで七年間それは続いた。僕もその子も、その間にどんどん成長していった。

 

文章を書くことを覚えて

中学三年の時、遠足で明日香村へ行き、そこで男ふたり、女ふたりのグループで行動した。秋晴れの空の下、のんびりとした風景の中を、色々とふざけながら歩き回ったことは、中学校生活のなかで一番楽しかった思い出といってよい。その日、家に帰ってから、その日の楽しかったことを思い出しているうちに、僕は無意識のうちに鉛筆を走らせていた。その楽しさを、消えることなく、いつまでも書き留めておきたいと思ったからである。ぼくは、ひどく他人と話すことがおっくうになっていた自分を再びふるいたたせ、必死に友人を作ろうとしたのが、中学校時代の後半なら、文章を書くことの楽しさを覚えたのもその頃であった。

小学校の頃、僕は作文が「大」がつくほど嫌いであった。先生が気に入るようないわゆる模範的な作文は、歯の浮くような美辞麗句が並べてあるように感じ、読んでいて寒気がした。小学生の頃、国語の時間に遠足の作文を書き、お互いに発表しあったことがあった。ある女の子が、「ブッブー、バスが来た。」という書き出しで作文をはじめた。それについて先生は、擬音語から始めるなんて実に独創的だと、その子を誉めた。しかし、僕は、その書き出しの裏に、何とか先生の目にとまりたいというその女の子の下心がありありと分かるようで腹立たしかった。いまだに、それは僕の一方的な偏見だけだとは決めつけられないような気がする。

僕も何度か「模範的な」作文を書こうと試みた。しかし、それは高慢で、そっけなくて、読んでいて自分自身腹の立つものでしかなかった。まず、その文章は自分自身に不正直であった。小学校の頃の作文と言えば、運動会や遠足などの行事についてや、読んだ本に対する感想などが主なものである。ぼくは、その作文に皆と同じように、「楽しかった、愉快だった。」と書いた。しかし、自分だけが何か選ばれた人間のように感じていた当時の僕にとって、皆とワイワイ騒ぐことはそれほど愉快でも、面白いことでもなかった。本も、作文の課題になるようなものは、子どもじみて、面白味を感じなかった。冷めた子どもだったのだ。しかし、作文の体裁を取り繕うために「楽しかった、愉快だった。」と書く。当然それらの文句だけが、他の文から浮き上がってしまい、とても作文と呼べる代物に仕上がるわけがない。そんな訳で、小学校の頃は、文章を書くのがそれこそ死ぬほど嫌だった。

どうして、その僕が文通など始める気になったのであろうか。他人に「自分は文通をしてるぞ」という格好の良さに憧れたのか、自分宛に手紙が来ることが素晴らしいことに思われたのか。ともかく、僕は小学校四年の頃から、東京の女の子と文通を始めた。それによって、徐々に、文章を書くことの面白さ、有意義さを覚えていった。

文通相手を見つけるきっかけも僕らしい。僕は、ある学習雑誌に、文通相手を求むと書いて送った。それだけではなく「この便りを載せなければ、もう二度とその雑誌を買わない。」と書いた。それは文通欄に載ったのではなく、僕の手紙があまりに脅迫状めいていたために、雑誌社が、こんな便りをもらって迷惑しているという苦情欄に載せたのである。ともかく、僕の名前が雑誌に載った。二三日して、日本全国から手紙の束が押し寄せた。合計八十通以上あったように思う。僕は、その中で一番はじめに着いた、佃さんという東京の女の子と文通をはじめた。相手の文章はなかなか洗練されていた。僕の方の文章はとつとつとしてそっけのないものだったが、ともかく、書き続けた。多い時は十日に一度、年間三十通を超える手紙が、東京と京都の間を往復した。そのうちに、僕の文章を書くことに対する違和感、恐怖感が薄らぎ、書き綴る速度もかなり速くなった。

中学になってから、生徒会が年に一度発行する文集に、推理小説めいた迷文を寄稿したり、今読んだら寒気がするようなエセロマンチックな文章をノートに書いたりした。一時期死ぬほど嫌いだったことが、その後大好きなことになるのであるから、人間は面白い。

 

絵を描くことと音楽と

絵を描くことが少し前まで僕にとって最大の楽しみだった。一体、いつ頃から絵を描き始めたのだろうか。三歳か四歳か。箸を握るより先にクレヨンを握っていたように思う。父親が大学の教務係に勤務していた関係で、よく反故になった紙を持ち帰ってきてくれ、紙だけは家に無尽蔵にあった。家の中に閉じこもりがちだったので、自然に絵を描いて日を過ごすことを始めたらしい。山や川などの風景、草花といった自然物はあまり絵の題材とならず、自動車、飛行機、電車、建物などを精密に書き上げるのが好きだった。僕の今のデッサン力が、他人より優れているとすれば、それは幼稚園に入る前に、すでに培われていたものだろう。

幼稚園に入園すると、絵がうまいということで、先生や他の子供達からかなり注目を浴びた。皆にうまいうまいと誉められているうちに、僕の心の中に「自分の絵は誉められて当然である。」という考えが巣食った。ぼくは、ある日、クレヨンで富士山の絵を仕上げた。僕はそれを誰かに誉めてもらいたくてしかたがなかった。そのとき、ちょうど母に来客があり、ひとりのおばさんが通り庭に立って話をしていた。ぼくは描いた絵を持ってその前まで行き、そのおばさんの前でさも手が滑ったようにその絵を落とした。いや、放り投げたと言った方が正しい。おばさんはその絵を誉めてくれたが、母はもちろん僕の心の内を知っていて、お客が帰った後、母の前で気まずい思いをした。これも、僕の幼い頃の、あまり思い出したくない記憶の断片である。

小学校に入学して、僕は大いに自分の絵の腕を振るえると思った。しかし、一、二年生のときの担任の先生は、僕の絵を、

「景色をそのまま写しただけで、自分の考えというものが入っていない。また、整いすぎていて小学生らしくない。」

と、批評してあまりいい点をくれなかった。もっとも、級友はうまいうまいと言って相変わらず誉めてくれたが。僕は自尊心を傷つけられ、その先生を憎んだ。僕は今でもこう思っている。「景色をそのまま写す」、「見たものをそのまま描く」、つまり写実、デッサン力こそが絵の基本ではないのか。ほかの子供達だって、景色をそのまま写そうとしているに過ぎないのだ。しかし、技術が稚拙なために、構図が乱れ、それがいわゆる「小学生らしい」絵を形作っているにすぎないと。

その後、担任が変わってから、僕の絵は見直され、幾つかの展覧会にも出してもらったし、賞状を何枚ももらった。図工、美術の時間、僕は皆の羨望の的だった。それは、僕の自尊心を満足させてくれた。もっとも、その次に体育の時間があると、まさに天国から地獄への転落となるのだが。

中学校の後半から、絵を描く機会がめっきりと減った。ピアノを弾いたり、レコードを聴いたりすることを好むようになったからである。実際、音楽というのは、絵を描くことに比べて手軽な楽しみで、そこから受ける感動も、もっと直接的であった。クラシック音楽に興味を持ち始めたのは、中学三年の頃からで、まわりの友人がベートーベンの何番がどうのこうのと話題にしているのを聞き、それがとても格好よく思え、僕もやってやろうと首を突っ込んだ。始めのうちは、話題について行こうと知ったかぶりをして、ずいぶん恥をかいた。

音楽が本当に好きになるきっかけになる一曲というものが、誰にもあるらしい。それらは一般的にポピュラーな曲が多いようだが、僕の場合はモーツアルトの交響曲四十番だった。第一楽章をポップス風に演奏したのをラジオで聴き、気に入ってレコードを買った。第一楽章の終わりの方が好きで何度も聴いた。中学三年のとき、音楽のテストで「聞き取り」というのがあった。流れてくる音楽を聴いて、その作曲家を答えるというクイズ番組みたいなもので、その時流れてきたのが当時一曲だけ知らなかったこの四十番であった。記号で答えれば良いのだが、得意になって「モーツアルト交響曲第四十番ト単調 K.550」と書き加えた。後日返ってきた解答用紙を見ると、“Thats right!”というコメントが書かれており、とても嬉しかったことを覚えている。

「エーゲ海の真珠」というポール−モーリアの曲がある。これはクラシック音楽ではないが、僕の大好きな曲である。中学二年のとき、林間学舎で志賀高原へ行ったことは前にも書いた。その時泊った熊の湯の旅館にジュークボックスがあった。その中に「エーゲ海の真珠」が入っており、その何ともエキゾチックな名前に魅惑されてかけてみたのだった。ぼくと、もう一人の大西という男はこの曲が気に入って、そこに滞在している間毎晩聴いていた。以来、この曲を聴くと、曲自体からはかけ離れたイメージだが、温泉の硫黄の臭い、高原の夜の冷たさ、夏だというのに吐く息が白く見え、タイル張りの床から素足に伝わってくる冷たさを思い出すのである。

ピアノを弾き始めたのも中学三年の時である。その頃、家のピアノは誰も弾くものがいなくて埃をかぶっていた。姉がピアノを習っていたのだが、その頃は、ほとんど弾かなくなっていたのだ。夏休みの終わり頃、僕は徒然にまかせてピアノの前に坐ってみた。しかし、もとより弾けるわけがない。僕はピアノの上に積んである楽譜の中から一枚を選び出した。それはベートーベンの「エリーゼのために」であった。僕は、下のハの音から順に五戦を指で「ド、レ、ミ」と言いながら数えて一番最初の音を見つけた。そして最初の部分を弾くというより、音にしてみた。わずか八分音符四つだが鳴らせることができた。それは曲とは言えないものだが、まさしく昔姉が弾いていた、耳に覚えのあるメロディーの一部だった。そして僕のピアノに対する情熱を掻き立てるのに十分なものであった。

その日から、僕は夕食後、必ず最低三十分はピアノにむかい、「猛然」と言うのも変な表現だが、一所懸命に練習した。一体、何百回、何千回「エリーゼのために」の冒頭を繰り返したことだろう。基礎が何にもない上に、自己流で、いきなりベートーベンに挑戦である。なかなかうまく行かないのが当然で、家族のうちで、唯一ピアノの弾ける姉は、百パーセントの自信で持って、僕が途中で投げ出すことを予言した。しかし、ほんの少しづつではあるが、それは次第に曲の形を整えていき、翌年の正月、ついに、まだつっかえつっかえではあるが、曲の最後まで到達したのである。実に、五ヶ月がかりで最初の曲をマスターしたことになる。

しかし、それからは比較的楽であった。といっても、五線を指で数えなくても、音が鳴らせるようになったという程度だが。その後、三ヶ月に一曲くらいの割で、レパートリーを増やしていき、高校二年の時には、ベートーベンのソナタ「月光」の第一楽章を一応弾けるようになった。ピアノに限らず、楽器を弾く、絵を描くなど、何らかの形で自己の表現手段を持っていることは、素晴らしいことだと思う。言葉では言い表しにくいが、ピアノを弾きながら自己の内面にどんどんのめり込んでいくようで、その実、自己の内面を徐々に表出していることが分かるようになった。

もうひとつの趣味は書道である。小学校四年のとき、家の近くの大徳寺玉林院の中にある書道教室に初めていった。それ以来、長いこと数多い小学生の中の目立たぬひとりであった。毎週日曜日の午前中に教室があるという、比較的他の予定と競合しないことがよかったのか、もう八年間続いている。現在は、教室内の師匠の助手のそのまたアシスタントとみたいな存在である。腕前は、一緒にやっている同年代の人間にくらべてそれほど秀でているとは思わないが、長年やっているうちにそれなりの進歩をした。ずっと半紙に書いてきたが、高校に入ってから条幅といって、畳を縦半分に切ったくらいの大きさの紙にも書くようになった。書道の面白さは、やり直しがきかない一発勝負である点である。造形ということで絵にも通じるところがあるが、絵の場合よほどのことがない限り塗り直しがきく。自分に一番合った趣味だと思う。今は、せっかくここまで来たのであるから、できるところまでやってみようという気持ちである。

趣味の話が長くなった。自分でも実に多趣味だと思う。しかし、父親など、これと言って趣味のない人間の無味乾燥さを見てきているだけに、若いうちは、趣味はいくつあってもいいと思う。そのうち自然に淘汰されて、最も自分に適した趣味が、本当に自分のものになっていくと思っている。

 

断片的な思い出

太宰治の「晩年」という短編集の「逆行」と言う短編の中に、「蝶々」という章がある。 その一節に次のようなものがある。

「この老人は、たいてい眼をつぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけてまぶたをぷるぷるそよがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。蝶々が見えるというのである。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、むらさきの蝶や、水色の蝶や、数千数万の蝶々が、すぐ額のうえをいっぱいにむれ飛んでいるというのであった。」

僕も幼いとき、布団の中などで、ぎゅっと眼をつぶるのが好きであった。そうすると、きれいなものが見えた。それは、顕微鏡でみたアメーバの仮足の中を液体きらきらと光りながら移動しているような感じだった。漆黒の中に、様々な色に光る小さな粒が、ときおりきらっと紫の光を発しながら移動していくのである。それはまさに、小さな蝶の大群であった。

子どものころ、家でごろごろして過ごすのが好きだったことは前にも書いた。しかし、全然外で遊ばなかったわけではない。近所の数人の男の子と、家の前の路地で野球をして遊んだ。ピン球と呼んでいたプラスチックのガラスに当たっても割れない玉を使い、電柱をベース代わりにした。打ったら一塁である電柱まで走り、そこからまたホームまでかえれば一点である。つまり、ホームと、一塁しかない野球であった。ランナーになって一塁ベースの電柱にくっついている間、木の電柱の下の方をむしり取ったので、そこがトンネルのように掘れて、木の年輪がきれいな模様になっていたのを覚えている。その電柱も、今ではコンクリート製になってしまっている。

幼稚園に通う前から、日曜日など父に連れられて、姉と三人で近くの船岡山という丘の上にある公園に行ったものだった。二歳上の姉もまだ幼稚園に行くか行かないかのころ、天気のいい昼下がり、僕は姉とふたりだけでその公園に行くことを企て、ふたりでとことこと出かけていった。母親が、僕等が近所のどこにもいないことに気づき、誘拐されたのではないかと大騒ぎになり、近所の人が総出で捜したということである。結局、僕らは公園で見つけられた。その日のことは、とても天気がよくて、公園へ向かう砂利道が白く光っていたことしか覚えていない。それも、その日の記憶であるという保証はない。考えてみると、その時僕はまだ三歳くらいだったのだ。

一歳半年上の姉とは、歳が近かすぎたゆえにか、結構憎みあっていたところがある。母親の運転する自転車の上で、母に、

「みーちゃん(姉の呼び名)早う死んだらええのに。」

と言って、しかられたことを覚えている。

歩いて五分くらいの近所に母親の実家があり、祖父母がいたので、暇な時はよく出かけて行き遊んだ。祖父は「網代」(あじろと読む)の職人だった。網代というのは、木を薄く削ったものを編んでいって、畳一枚くらいの大きさに編み上げ、それを天井や、引戸に使うのである。高級料亭などで一時はかなり需要があったらしい。祖父母はいつも家にいて相手になってくれるし、材木、木っ端、かんなくず、おがくずなど、子どものおもちゃになりそうなものが豊富にあり、それで色々なものを作り、時間の経つのも忘れていつまでも遊んでいた。祖父母も、僕を可愛がってくれた。編み上げた網代の裏に新聞紙を貼り付けるのに、でんぷんを鍋で煮た糊を使うのだが、それをねらって時々大きなゴキブリが祖父の仕事場を這いまわっていたのを思い出す。

小学生になり、自転車を買ってもらうと、行動範囲が飛躍的に拡大した。日曜日の午後など、自転車でよく遠出をした。両親は危ないからとあまりいい顔をしなかったが。僕の家は京都市の北方にあった。山が迫っており、少し走ると丘陵地帯になった。ある日曜日、鷹ヶ峰という高台を夕方自転車で走っていて、京都の街のほうを振り返った。京都は盆地である。紫がかった山に囲まれた街が夕日を受けて燃え立つようなオレンジ色に染まっていた。僕は感動してしばらく見とれていた。

僕らの世代で誰もがやったような、めんこ、こま、ビー玉などで遊んだ記憶はない。家のまわりで、男の子達がそれらをよくやっているのを見たが、僕は、地域をはなれた国立大学の付属小学校にいっていたため、小学校に行くようになってからは、近所の子供達とほとんど遊ばなかった。家にいるときはいつも、独り遊びをしていた。その独り遊びの最たるものは、架空の野球チームを作り、それを対戦させ、そのスコアブックや順位表、個人記録をつけるというものである。よくもあんな手の込んだ遊びを考え出したと自分でも感心する。

 

父親のこと

僕の家では、父の方針で、他家と比べて、かなり厳格な躾が行われていた。テレビを見ながらの食事、買い食いは厳しく禁じれれていた。また、食事に嫌いなものがあっても、それを食べ終わるまで、一時間でも、二時間でも膳の前に坐らされた。僕は特に、菜っ葉と揚げの煮物が苦手だった。菜っ葉と格闘しているとき、母が側を通り、父に内緒で食べるのを少し手伝ってくれたのを覚えている。テレビ無しの食事が、僕にとって当然のことであり、今でも、誰か他の家へ行ったとき、食事中にテレビがついていると、戸惑いを感じ、落ち着いて食事ができない。ちなみに、テレビが家に入ったのは、僕が四歳のときである。従って、厳密にいうと、生まれてからずっとテレビに囲まれて育った世代ではない。

父の教育方針の基本は、子どもが自分でやったことは、自分で始末をつけさせるということだろうか。あまりいい例でないかもしれないが、僕が通った後、障子が三センチほどあいていたとする。そんな時、父は僕が二階にいようが、外にいようが、僕を呼びつけてそれを閉じさせた。決して自分で閉めるということはしなかった。

年に一度、必ず家族で旅行する、というのも父の考えであった。おかげで、小さいときからあちこちを訪れることができた。父親は、旅行へ行く前に綿密な計画を立て、それが汽車の遅れなどで少しでも狂うと気分を悪くした。「旅行」というものに抵抗がなくなったが、小さいときから家族で旅行することの窮屈さを始終感じていた。

当時父は、普段はともかく、怒るとものすごく恐い存在だった。小学生の低学年のころまでは、悪いことをすると、父に裏庭や、表の道路に放り出され、鍵をかけられたものだった。自分の子だけでなく、他人の子どもにも父親は厳しかった。一緒に遊んでいる子供達にも父はよく雷を落として、近所の子供達には非常に恐れられていた。近所の子供達が家に遊びに来ているとき、父が帰って来ると、皆こそこそと逃げるように帰っていったのが今でも目に浮かぶ。

 

中学生も終わりの頃

だんだん古い話になって、順序が逆になってきたようだ。中学生の頃に話を戻そう。

初めてマスターベーションをしたのは、中学三年の十二月、小さなテレビを自分の勉強部屋に持ち込んで、年末恒例のベートーベンの第九交響曲を聴いていたときであった。その日の夕方、僕は本屋へ行き、立ち読みで手にした本にマスターベーションのやり方が書いてあるのを見つけた。それを試してみたのであった。そのときは、慣れていなかったので、後の処理に困ったのを覚えている。

中学生の最後に、今思い出しても死ぬほど嫌なことをしてしまった。ひとりの女の子に小学校のときからずっと憧れ続けたことを先に書いたから、初めてのデートと呼べるものはその子が相手かと思われるだろうが、実はそうではない。

中学三年の頃、学校では、男の子と女の子が誘い合わせて一緒に帰るのが流行していた。僕は、本心、それをやってみたくて仕方がなかった。ところが、本当に好きだった女の子に切り出せないのが、僕の勇気のなさである。ぼくは他の「手軽な」相手を捜した。そして、ある日、僕は本心それほど好きでもない、一年学年が下の女の子を帰り道にさそった。その子は、愛想がよく、委員会が一緒で、それまで結構話したことがあった。しかし、自分に不正直な、軽はずみな行動は長続きするはずがない。裏千家のあたりを歩きながら、お互いに会話ははずまなかった。二、三回、一緒に帰っただけで、誰か「女の子」と話をしたいという気持ちとは裏腹に、その子と話すことが面倒に思われるようになった。結局、その後、その子を誘うこともなく、気まずさと、何でこんなことをやったのかという、後悔と自責の念が残った。その子にすまないと思うと同時に、二度と会いたくないと思った。その子に一度手紙も出したのだが、それも焼き捨ててほしいと思った。

やはり、事に当たる場合は、それなりの決心をした上でのことでないと、途中で面倒なことになってしまう。とくに、人間関係の場合、相手を傷つけることもあるし、自分は忘れたいと思っても、相手があることだけに、向こうが覚えていると思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。

それと、もう一つの教訓は、愛想のいい女性と、自分に好意を持ってくれている女性を、混同してはいけない、見極めなくてはいけないということである。誰にでも、愛想のいい女性がいる。彼女にとってそれは自然な振る舞いなのだが、それを自分に対する好意と勘違いして、自分もその人が好きだと錯覚することがあるものだ。それを見極めるのは結構難しいと今でも思う。

僕には、昔から無責任なところが多分にある。この、中学三年のときの出来事も、僕の無責任さのなせる業であろう。僕はよく、失敗して相手を傷付けても、時の流れがその記憶を僕からも他人からも押し流してくれることをひたすら待ち望んだ。自分は何もしない。やらなくてはならないこともしない。たまに自責の念に駆られるが、それでもひたすら自分も他人も忘れることを待つ。他人はいつか忘れてくれるかもしれない。しかし、自分の心の中でそれは永久にしこりとして残ることがわかってきた。それが、癌細胞のように成長し時間とともに重圧を増してきたり、忘れたと思っても、夢の中に突然現れたりする。自分でもその無責任な性格から、何とか脱皮したいと思うが、難しい。高校へ一年遅れで入学してきた、その女の子と、またごく普通に話せるようになったのが、せめてもの救いであった。

子どもは誰でもそうかもしれないが、少なくとも僕には、小さい頃、心から「ごめんなさい」と言った憶えはない。しかられて、しかたなくあやまっても、それは取りあえずその場を納めたいだけのもので、大抵は相手を逆恨みしていた。また、癇癪持ちであった。ひとつのことを始めて、途中でうまく行かなくなると、それまでやったことが水の泡になるのが分かっていながら、全部を叩き壊してしまったことが何度もある。

とにかく、やろうと思っていることや理想は立派で、自尊心も強い反面、行動、内容の伴わなかった、そんな幼年時代を僕は過ごした。

 

[ 第一部 了 ]

 

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