初めて洋子を誘ったこと

前章で、物心がついてから中学校時代までの僕の歩みの概略を書いてきた。この章ではその続編、つまり高校に入学してからのことを書くことになるのだが、今現在、僕は高校生活の半ばを少し過ぎたところにすぎない。前章で十五年間のことを書き、その章ではわずか二年足らずの間の出来事を書くというのは、不釣り合いな感じもするし、出来事も最近のことで生々しく、なんとなく書くことがはばかられるのだが、敢えて書き始めることにした。そのひとつの理由は、記憶が忘却の中に埋もれてしまうまでに、できるだけ確かなことを詳細に記しておきたいということ、もう一つの理由は、これから一年間、大学入試の為の、いわゆる受験勉強に取り組まなければならず、おそらく、その後大学に入ったら入ったで生活が激変するであろうし、のんびりと自叙伝など書いている余暇が見つけられるかどうか分からないからである。

全く受験勉強をせずに、僕は同じ国立大学の付属高校に合格した。合格するということを、僕自身、信じて疑わなかった。自分の成績に自信があったというのではなく、低い競争率から考えて、今までわりと順調にきていた僕が、ここで不合格という貧乏籤を引くとはありえないことのように思われた。受験勉強らしい勉強をしなかったという引け目を多少感じてはいた。しかし、合格をしたときは、当たり前だと思いながらも、一応人前でははしゃいでみせた。もう、これ以上書くのはよそう。僕にとってそれほど大切でもない合格ということについて冗長に書くのは、それ自体が、人前では一応はしゃいで見せたということと同じ行為である。入試が済んで、明日からしばらくのあいだ、他人の目をはばからずのんびりできると思うと、ほっとした気分だった。残りの中学生としての時間は、卒業行事などであわただしく過ぎた。

高校の入学式も近づいた四月初めの天気のいい日、僕は中学三年の終わり頃から急速に親しくなった畠山という男と、御所の一般公開を見に行った。紫辰殿など京都御所の内部は、普段見ることは難しいが、一年に春秋の二回、数日の間一般公開されるのであった。御所を出てから、自転車で岡崎公園の方に移動し、美術館の前で、ふたりでとりとめのない話をしていた。そのうち、ふたりの意中の女性の話になった。畠山は、僕が小学校三年の頃以来、一人の女の子(洋子という名である)を思い続けていることを知っていた。そして、以前からも、一度彼女を誘ってみたらと僕に勧めてくれていた。しかし、僕はなかなかその気になれなかった。長い間、僕は心の中で、その子を誘ったりすることを、完全に不可能なことだと信じこんでいた。また、今まで離れているというだけで、何もなかった洋子とのあいだに、高い壁ができてしまいそうな気がした。つまり、相手が僕のことを知らない限り、少なくとも僕を嫌いになるということはないのであるが、洋子が僕の存在を知るということ自体、僕を嫌いになる危険性をはらんでいるのでいることになる。

畠山は積極的な男であった。話しているうちに、僕自身に対しても全く意外に、一度洋子を誘ってどこかへ行こうという気が頭をもたげ始めた。人間、どうせいつかは死んでしまうなら、自分の思いを相手に打ち明けないで、終わってしまうほど口惜しいことはない。大恋愛をして、大失恋をするのもよいではないか。第一、今のままでは、相手の洋子は僕の存在すら知らないままに終わってしまうのだ。この「終わる」という言葉は、「死ぬ」と同じ意味に解釈してもらってもいい。僕は真剣だった。僕は決心した。それは、六年間の思いが、一瞬にして壊れ去る危険をはらんだ冒険のように思われた。

その日の夜、僕は自宅の電話を使わず、少し離れた電話ボックスから洋子の家に初めて電話をした。暖かい春の宵であったが、緊張のあまり震えが来そうだった。

「僕、川合です。僕のこと知ってる。一緒に映画いかへん?その日がだめやったら、別の日。とにかく僕とどこかへ行ってくれる可能性はある?」

僕は、考えた末、こんな会話には不似合いな「可能性」と言う言葉を使った。洋子はともかくオーケイしてくれた。その後、家までの帰り道は、まさに狂喜であった。帰り道に出会った西田という友人に、興奮してそのことを伝え、家に着くと、いち早く東京の文通相手の佃さんに葉書をかいた。独りで、心にとめておくには嬉しすぎた。

一九七三年四月八日、今では、それほど大切な日だと思わないし、いずれ、忘れてしまうだろうが、少し前までは、この日を一生忘れまいと努力していた。その日、初めて洋子を誘って映画を見に行った。そんな風に書くと、誰もが僕と洋子のふたりきりだと想像するだろうが、実際は畠山も一緒だった。弁解がましく言えば、畠山がいたのは、僕が洋子を独りでさそう勇気がなかったからではない。畠山も意中の女性を誘ったのだが、その子の突然都合が悪くなり来られなくなったのだ。しかし、三人の方が会話の間があかないので、初めて洋子と話すことで緊張していた僕にとっては、話がはずんでいいと思った。

市役所の前で待ち合わせたのだが、畠山と洋子のふたりとも、約束の時間に三十分近く遅れてきて、僕は最初からすっぽかされたのではないかとやきもきした。人ごみの中、横断歩道の向こうに洋子の姿を見とめたとき、僕は、感慨の他に、彼女の顔がひどく平面的であるという印象を受けた。今まで、遠くから眺めていたときより、人間的というと変だが、普通の女の子に近づいた気がした。その時、初めて洋子に言った言葉が、また、実にくだらない。

「僕が誘ったとき、きみがもし断ったときのために、恨みの言葉を数々用意しといたんだけど、使わなくて済んでよかった。」

すると、洋子は「恨みの言葉」というのに少し驚いた様子で目を丸くした。この言葉でさえ、あれこれ考えた末に発せられたものなのである。もし無計画に口を開いたら、もっとくだらないことしか言えなかったかもしれない。

その日も、とても暖かい日だった。洋子はピンクの長袖のブラウスの上に、紺色のベストを着て、紺色の短いスカートをはいていた。その日のことを思い出すと、自分がこちこちに緊張している様が滑稽になってくる。しかし、今あれと同じ状況に置かれても、結局同じ行動しか取れないと思う。回想すると、恥ずかしいが、今でもあの時の新鮮な気持ちを嫌いではない。

映画館に入ったが、日曜日のことで満員、かろうじて三人が並んで坐れたのが、最前列であった。七十ミリのワイドスクリーンの映画を最前列で見ることは、首と尻に大いに負担がかかった。映画の途中に僕は何度もちらりと横を向き、洋子の横顔を見た。洋子の顔は、前から見るより、横から見る方がいいと思った。

映画館を出たあと、僕と畠山は腹が減っていたので、三人で軽食堂に入った。男ふたりはスパゲティーを注文し、洋子は何か冷たいものを注文した。僕は、高校に入ったらどんなクラブに入るのかとか、普段どんな生活をしているのかとか、相変わらず緊張しながら、洋子にいろいろ聞いてみた。洋子も、その時は精いっぱい、そう、精いっぱいお答えしますと言う感じで返事をしてくれた。

「運動会できみが走っているのを写真に撮って、今、机の上に貼ってある。」

と行ったときも、洋子は別段嫌な顔をしなかった。帰り道、本屋へ立ち寄り、バス停まで洋子を送っていった。バスに乗るとき、洋子は、

「今日は楽しかった、有り難う。」

と言ってくれた。この文章を書いている今も、その言葉が、単なる外交辞令ではなかったと思っている。バスを見送ったあとで、ついに一歩を踏み出したぞという、妙な責任感が湧いてきた。高校の入学式の二日前であった。洋子も同じ高校に進むことになっていた。

 

陸上部に入ったこと

高校の入学式は雨の日だった。式場である体育館のかまぼこ型の屋根を強い雨足がたたき 、その音が体育館の中に反響し、不気味な雰囲気をかもしだしていた。僕は、生まれて初めて詰め襟の学生服を着て、式に臨んだ。

入学して、陸上競技部に入った。先にも書いたように、中学の時、校内のレースで毎年いい成績を収めていたので、一度本格的に自分の長距離ランナーとしての可能性を試してみたいと思ったのである。しかし、そんなひとかけらの自負も、入部すると間もなく吹き飛んでしまう。

陸上部の一年上に、当時キャプテンをしていた、黒沢さんという先輩がいる。長距離ランナーで、練習熱心な人だった。練習のとき、地面に這いつくばるように倒れても、監督からの叱咤で、また起きて走りだす。根性の固まりみたいな人だった。そんないいお手本があったにもかかわらず、僕は精神的な弱さを克服できず、貧血気味だったこともあって、練習の成果は上がらなかった。

初めて、陸上の試合に出場したのは、高校一年の六月、京都府の高校総体で三千メートルを走った時だった。暑い日で、グラウンドコンディションが三十四度と発表されたのを聞いて、走る前から、精神的に参ってしまった。ウオーミングアップをしていても呼吸が苦しい。アップの疲れが取れないまま、スタートの号砲とともに、ともかく走りだしたものの、二周めから苦しくなり、完全にダウン状態。ヨロヨロと歩くようなスピードでどうにか七周半を走り切り、ゴールインするなり、スタンドで寝込んでしまった。タイムは、十二分三十秒。翌年の同じレースを十分四十秒で走っているので、いかにこの時遅かったかが分かると思う。

スタンドで寝転がっていると、吐き気がおそってきた。喉に指をつっこんで吐いた。女子部員が汲んできてくれた水を、水筒に二杯ほど飲んだ。その時は、格好など気にしている余裕はなかったが、多分、無様であったとことだろう。陸上を始めたばかりなのに、もう二度と走りたくないと思った。その結果、高校一年のシーズンは、試合恐怖症といったものにかかり、試合ではほとんどビリに近い成績ばかりであった。

僕の性格のいい面というのは、それでも、練習をサボることを自分に許さなかった点だろう。一緒に入部した他の長距離専門の一年生が次々やめて、中長距離の一年生は僕と、あと八百メートルをやっている女の子とふたりになったが、それでも、練習だけはきちんと毎日こなしていた。夏休みの練習のとき、苦しさに耐え切れず、走るのがいやになると、指を喉に突っ込んで吐き、しばらくの間日陰で寝転んだ。ゲーゲーと吐いている人間に、さすがの顧問もそれ以上走れとは言わなかった。寝転んで、木の葉っぱの間から、太陽を見ていると、少しの間幸福な気分になった。夏は、僕の一番嫌いな季節である。夏の炎天下の練習の、なさけなくなるくらいの暑さの思い出が、余計夏を嫌いにさせているに違いない。とにかく、好きで始めた陸上競技だが、秋の駅伝までは、苦しいことばかりが記憶に残っている。

洋子は中学のときから、陸上競技をやっていたので、高校に入ったら、一緒のクラブで活動することになった。これは、まったく偶然のなす業である。陸上部に入ったら、洋子と一緒にいれるなどと、微塵も思ったことはないし、練習や試合で、洋子の前でいい格好をしようにも、自分に余裕がなさすぎた。

夏が終わり、秋のシーズンに、数回試合で千五百メートルや、五千メートルを走ったが、どれもひどい成績であった。そんな中で、いやなことを忘れさせ、来年も走ろうという希望を持たせてくれたのが、高校一年の十一月にあった高校駅伝である。

僕が、陸上部に入部した年、二、三年生の長距離陣がかなり強力であったので、久しぶりに高校駅伝に出場することになった。僕の通う高校は進学校であり、運動では弱小校であった。通常、駅伝を走る七人の選手が集まらなかった。夏休みが終わってから、毎日、十一月の本番を目指して、僕らは規則正しいトレーニングを積んだ。緩急をつけて走るインターバルトレーニング、ロードワーク、タイムトライアルなどが繰り返えされ、毎日十キロから十五キロメートル走りこんだ。

その時の練習で思い出されるのが、鴨川の河川敷での二十本のインターバルトレーニングと、十二キロのロードワークである。鴨川での練習のとき、倒れる直前までバテバテになったこと、走っているときに、草むらの中に、犬の死骸を見つけたことを覚えている。十二キロのロードワークは、学校のある伏見から、醍醐、山科へ出て、名神高速道路沿いに伏見に戻るというコースであった。その時の帰り道、山をひとつ越えなければならない。顧問の先生が、ホンダのスーパーカブで伴走する。帰りの高速道路の横の上り坂で、僕はいつも二三年生の集団から遅れがちになった。すると、バイクの顧問から、

「こらっ。川合。前につかんか。」

とどなられる。僕は汗と一緒に涙を流しながら、前の集団に追いつく。その時、僕の頭の中には、坂の頂上までの距離しかなかった。

僕のその時の目標は、七人のレギュラーの一人に入ることだった。全部で選手が十人くらいしかいないので、そんなに難しいことではなかったし、本番の三週間前の三千メートルのタイムトライアルで、十分三十六秒という自己記録をだしていたので、僕が本番を走ることはほぼ確実だった。ところが、二週間前の、試走で、補欠の一人の棒高跳びの選手に負けてしまい、せっかく決まりかかっていたレギュラーの座を白紙に戻されてしまった。顧問は、一週間前にもう一度三千メートルのタイムトライアルをして、早いものから順番に七人出場させると言った。僕はまだ少し余裕があった。トラックのレースなら、棒高跳びの選手には負けない自信があった。最後の、タイムトライアルで僕は六番目に入り、やっとのことで、駅伝の正選手となったのである。

レースの前日は、丹波高原にある、スポーツセンターの合宿所に泊まった。夜、外に出てみると、肌を刺す冷気に身が引き締まり、霜が厚く積もっているのが見えた。僕は生まれて初めて天の川を見た。心の中に、明日はきっと成功裡に終わると確信が湧いてきた。その夜は、レースの途中で自転車で抜け駆けをして、三位になるという、馬鹿馬鹿しい夢を見た。

翌日、僕らのチームは十位に食い込む健闘をみせた。僕のタイムは三キロを十分四十九秒という決してよいものでなかったが、区間でも十位、たすきをもらったときは十一位だったものを、ひとり抜いて十位に上げたので、自分としても満足であった。翌日の新聞にも十位までは、一人ずつのタイムが名前入りで詳しく載った。選手よりも、顧問の先生が何より嬉しそうであった。とにかく、この駅伝は、陸上競技をやっていて、「楽しかった」最初のこととなった。

<次へ> <ホームページに戻る>