秘密トレーニング

 

スタート地点オマロス。標高千二百メートル。何となくアルプス風。

 

六月三十日。今日はクレタ島のハイライト、サマリア峡谷に行く日だ。

クレタ島へ着いたら訪れる場所で、二箇所だけ、出発前に既に、いや、クレタ島に行くと妻に聞いて旅行案内書を見た瞬間から行くと決めていた所があった。ひとつは前述のクノッソス宮殿。もうひとつが今日行くサマリア峡谷だ。旅行案内書には、垂直に切り立った崖の間の幅わずか数メートルの道を、人が歩いている写真が載っていた。また、クレタ島に行くから二週間レッスンを休むと、ピアノの先生のヴァレンティンに伝えたところ、クレタ島を何度か訪れたことがあり、山好きの彼が、

「サマリア峡谷だけは是非行くといいよ。」

と勧めてくれた。

サマリア峡谷、英語では「サマリア・ゴージ」(Samaria Gorge)と言う。クレタ島には険しい山が水によって削られたV字谷、「ゴージ」が各所にあり、そこが格好のトレッキングコースになっている。サマリア・ゴージはその中でも最長であり、最も美しい峡谷だという。

しかし、そこを訪れるにあたり、僕には大きな問題があった。心臓だ。フルマラソン完走十回を誇る僕も、三年間で二度の手術の後、心臓の機能はまだ半分くらいしか快復していない。平らなところなら歩けるが、走ったり、上り坂だったりするとすぐに息が切れ、胸が痛くなる。事実、一昨年、マデイラ島で激しいアップダウンのあるコースを歩いていて、気分が悪くなり、スミレに引っ張ってもらって帰ったことがある。

サマリア・ゴージは全長十八キロ。途中で抜け道はない。したがって、歩いている途中で怪我をしたり、気分が悪くなっても、スタートに戻るか、ゴールまで歩き通すしかないのだ。まあ死んだら、遺体をロバの背中かヘリコプターで運んでくれるとは思うが。

僕は、クレタ島行きが決まってから、「秘密トレーニング」を開始した。毎朝七時に出勤し、茶を入れる。その茶が出る間、会議室でスクワット百回に腕立て伏せ三十回を自分に課した。トレーニング中に突然掃除のおばちゃんが会議室に入ってきて、

「日本人は仕事前に体操をするって噂、本当だったのね。」

と言われたことがあった。それ、ラジオ体操のことじゃないの。

また、昼休みに四十五分歩き、夕方に犬と二十五分歩く。毎日六キロ歩いた。一週間で三十キロ余り。しかし、コンディションは今ひとつ。運動をやりすぎると胸が痛くなったり、不整脈が出たりして、いくらやっても一進一退で進歩がないのだ。

最終的に、サマリア・ゴージを歩いてみようと決めたのは、二日目に足慣らしで、インブロス・ゴージを一時間半歩いてみたときだ。自分のペースでゆっくり歩けば、心臓はついてきた。サマリア・ゴージのコースは、十八キロの長丁場ながら、標高千メートルの場所までバスで連れて行ってもらい、海岸まで「下り一方」。息の切れないペースを守り、ゆっくり行けばなんとかなると、僕は希望的に予想した。

 

所々水場が設けられており、水を補充することができる。

 

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