エイズウィルスの入った冷蔵庫

クリスマスにドイツへ来た彼は、何故かいつも風呂に浸かっていた。

川上村の西田の下宿捜し当てたとき、既に午後七時を過ぎていた。京都を出たのが朝六時だったので、十三時間もかかったことになる。運転の疲れと、空腹とで、車から降りると、足元がふらついた。彼は部屋にいた。彼の部屋は大家の庭に建てられた、いわゆる「離れ」であった。

「おう、ケベか。よう来たの。」

彼は言った。ケベというのは僕の高校時代のあだ名である。これまで他の土地で、彼の部屋を訪ねたが、片付いていたためしがない。今回も果たして、雑然とした部屋だった。

腹が減ったと言ったが、食料は何もなかった。京都を出る時、母親が、五目寿司の弁当を二食分作ってくれ、昼食に一食分食べたが、一食分がまだ残っていることを思い出した。僕は、取りあえずそれを食べて腹を落ち着かせることにした。

こんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。朝六時に京都を出て、高速道路を使わず、下道ばかり走っていたら、休まずに運転していたにもかかわらず、昼過ぎにはまだ姫路にいた。その後、竜野を通り、中国勝山についた時には、日もとっぷりと暮れてしまっていた。そこからは、暗い山道を運転し、湯原温泉を抜け、やっと岡山県と鳥取県の境にある蒜山高原に着いた。村に入り、何回か道を尋ねた後、西田の下宿を捜し当てたのが、午後七時だったと言うわけだ。西田はここで、昨年から酪農組合所属の獣医をやっていた。

三月の始めのことであった。僕は一年間の浪人生活の後、大学院の入試に合格し、四月から学生に戻ることになっていた。時間を持て余していた僕は、月賦で買った軽乗用車を駆って、一足先に就職した、幼なじみの西田を蒜山高原に訪ねることにしたのであった。

さて、西田の部屋で五目寿司に箸を付けようとしたとき、大家の娘さんが走ってきた。

「西田センセ。なんとかさんところ豚、お産の最中に苦しんでる言うて、電話がありました。すぐ来て欲しいと言うておられます。」

とのこと、西田は、いや大変と言う顔をして立ち上がった。

「ケベも一緒に来る?」

「うん。」

僕も、弁当を片手に立ち上がった。

「これ着ていけ。助手っちゅうことにしよう。」

西田は、自分で白衣を着ると、もう一枚の白衣を私に投げてよこした。ふたりで白衣を着て、私は弁当を持ったまま、彼の車に乗り込んで出発した。車の両側には、白黒牛のステッカーが貼ってあった。これは、西田の趣味によるものらしかった。往診の道具は、常に車に積んであった。

大家の娘さんの話を聞いた時、いや大変と言う顔をした理由が間もなく分かった。

「俺、牛専門で、豚はあんまりよう知らんねん。ケベ、そこに本があるやろ。豚の基礎体温を調べといてくれへんか。」

彼は、運転しながら、専門書を僕に押しつけ、豚についてあれこれと調べさせた。泥縄というか、付け焼き刃というか、僕は言われるがままに、その部分を読み上げた。

なんとかさんの農場につくと、玄関で待ち構えていたなんとかさんの親爺さんが西田と私を豚小屋に小走りで案内した。豚のお母さんがお産中に、何匹かを産んだ後、産道に子豚を詰まらせてしまい、苦しんでいるとのことだった。豚は通常十何匹子供を産むらしい。現場に着いた西田は、さすがに職業意識に目覚めたのか、先ほどの狼狽はおくびも見せず、

「子宮収縮剤を打ちます。」

と言うや、母豚の尻に、注射を突き刺した。そして、肩まである長いゴム手袋をはめ、

「ケベも、お母はん押さえんのん、手伝うてくれ。」

と言った。豚の飼い主と、私が、母豚を柵に押し付け、動かないように力いっぱい押さえている間に、西田は母豚の産道に手を突っ込んだ。彼の腕は付け根まで入り、顔がちょうど母豚の尻に直面する格好だ。母豚は苦しがって動こうとする。そのたびに、母豚の肛門から飛び出しものが西田の顔を直撃した。糞まみれになりながらも、西田はひっかかっていた子豚を探り当て、引きずり出した。死んだ子豚は、血だらけで、まだ薄い袋にはいっていた。

「これで終わりやろと思います。」

西田が言った。母豚の苦しみも収まったようだった。西田はなんとかさんに連れられて顔を洗いに行った。西田は机上の知識を、力で圧倒したのだ。

僕は、小屋の隅の藁の上に座り、弁当を食べはじめた。とにかく、腹が減っていた。足元では、死んだ子豚の横で、先に生まれた子豚が、ピーピー泣きながらもう走り回っていた。

なんとかさんの農場を辞した後、西田は自分の所属する酪農組合の建物に立ち寄った。建物の奥には座敷があって、何かの寄り合いの後だろうか、土地の農家の親爺さんたちが二十人ばかり集まって酒盛りをやっていた。親爺さんたちは、西田を見ると、

「西田センセ。ちょっと上がって飲んでいきなさいよ。」

と誘った。

「あんた、西田センセのお仲間かの。一緒にやっていきなさいよ。」

まだ白衣を着ていた僕も座敷に引っ張り上げられて、親爺さんたちと一緒に飲むことになった。西田は余り酒が飲めないので、もっぱら僕が親爺さんたちの相手をした。ある親爺が酒の肴に蟹の甲羅揚げを勧めてくれた。こんな山の中で蟹を食べることに、不思議な気がした。

ひとしきり酔って、小便をしに外へ出た。外は都会では考えられない漆黒の闇で、三月とはいえ、高原の夜は身震いするほど寒さが厳しかった。小便をしながら空を見た。冴え渡った一面の星空で、天の川がくっきりと見えた。

西田のあだ名は「ゲンシ」と言う。これは「原始人」から来たものである。彼とは、実家が近くで、高校時代、夜ふたりで家を抜け出しては、近くの公園や、神社の境内で、馬鹿話をしながら、煙草を吸っていた。ある時、あとふたりの友人と、東北地方に貧乏旅行に出た。各駅停車に乗り、野宿をしながら、三陸海岸の浄土ケ浜というところまで行った。寒くなったなと思うと、隣で西田が一所懸命木を擦りあわせていた。

「お前、何してんねん?」

と聞くと、木を擦りあわせて火を起こそうとしていると言う。いつもこの調子で、どこまでが本気で、どこからが冗談か理解に苦しむ男であった。ともかく、その後、彼は「原始人」、そして「ゲンシ」と呼ばれるようになったのである。彼もその呼び名が気に入ったのか、時には関西風に自分を「ゲンヤン」と呼ばせたりしていた。

西田は酪農組合の獣医を一年で辞めて、青年協力隊でタンザニアに行った。彼の乗っていた白黒牛のマークが入った車は、僕が受け継ぎ、「モーモー車」などと呼ばれながら、しばらく金沢で乗っていた。その間に僕も就職が決まり、富山県に半年住んだ後、ドイツに派遣され、そこで働くことになった。

ある年のクリスマス、西田がドイツで僕と家族の住むマーブルクにやって来た。タンザニアからの帰りだという。アフリカ帰りとは信じ難く、自分ではマラリアに罹って苦労したと言っていたが、日本で見た時より少し太ったのではないかと思われた。彼は、サハラ砂漠を見たくて、北アフリカでバス旅行を試み、おんぼろバスで揺られているうちに痔になったと言った。痔は暖めた方がいいと言って、一日中風呂に湯を張り、風呂に浸かってばかりいた。二歳になる息子も喜んで彼と一緒に風呂に入り遊んでいた。ちょうど、妻が風邪をひいて熱を出し寝込んでいたので、僕が仕事に出かけている間、彼が飯を作ってくれた。

大晦日の正午に彼は発って行った。マーブルクの駅で、彼はなぜがフランスのマルセイユ行きの切符を買った。ドイツの田舎の駅で「マルセイユ」などと言う行き先で切符が買えるか心配だったが、僕が駅員に

「マルセイユまで片道一枚。」

というと、駅員はあっさり切符を出してくれた。妻はまだ風邪で寝ていたので、息子とふたり、西田をホームで見送った。

それから何年かして、僕たち家族はロンドンに移った。そのロンドンにも西田が一度やって来た。今度はガーナからの帰り道に立ち寄ったということである。タンザニアから帰って、彼は博士号をとるために京都大学の大学院に入り、結婚していた。ガーナでは数ヶ月間、単身エイズウィルスの研究をしていたとのことであった。

飛行機から降り立った彼は、前回会ったときよりまた少し太ったようだった。よくよくアフリカが性に合っているらしい。彼は発砲スチロールの箱を一つ手荷物でもっていた。その中には、エイズウィルスが培養してあるシャーレが入っているとのことであった。僕の家に着いて、彼はその箱を冷蔵庫に入れて欲しいと言った。妻が気味悪がって拒んだので、結局僕の会社の冷蔵庫に入れて置くことにした。それから数日間、彼が日本へ向かってロンドンを離れるまで、そのエイズウィルスはシティーにある会社の冷蔵庫で生き続けていたのであった。

それから数年して彼はまたロンドンにやってきた。二年間ナイロビに滞在した帰り道ということで、今度は、奥さんと、ケニア産まれの娘を連れていた。僕たち家族で、西田一家の逗留するホテルを訪ねた後、ソーホーのチャイナタウンで一緒に中華料理の卓を囲んだ。滅多にない機会なので、一番高いコースにした。生姜の香りの効いたロブスターをほおばる西田を見て、前回よりまた少し太ったなと僕は思った。

 

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