トルコとドイツの友好関係

ケルシュは細くて小さなグラスで飲む。

 

 僕たち三人は満腹でブラウハウスを出た。息子によると、それからの予定は「ショッピング」とのこと。金欠の彼は、両親がいる間に、できるだけ金を使わそうという魂胆らしい。アルトシュタットで衣料品を買い、それからUバーンに乗り、ドイツ最大の学生数を誇るケルン大学のあるヒュルト地区に向かう。駅前のスーパーマーケットでまた大量の食料品を買う。もちろん、金を払うのは両親である。

 息子の住いは、エフェレンという駅から歩いて五分の「シュツデンテンドルフ、学生村」の中にあった。黄色い二階建ての別荘のような建物。三人で台所、風呂を共有しているとのこと。しかし、ふたりの同居人はそのとき留守であった。部屋には彼が奨学金で買った電子ピアノがあり、窓からは芝生の庭と池が見える。結構良い部屋である。ピアノで何か弾いてよとリクエストをすると、彼はショパンの「幻想即興曲」を弾きだした。

 午後六時半に、明朝中央駅で落ち合うことを約束して、ワタルの家を出る。七時半にホテルに着く。三時頃にボリュームのある昼食を食べたので、妻も僕も腹が全然減っていない。夕食はもういらん、パスということになった。寝るのも早いので、ちょっくら飲みに行こうか、ということになった。ふたりで外に出ると、夕闇が迫っていた。石造りの門を潜り、中央駅に向かって歩き、右側にある一軒の「クナイペ、飲み屋」に入った。

 店は空いていた。テレビでサッカーの中継をやっている。妻と僕はカウンターに腰を下ろし、もちろん、「ケルシュ」を注文する。隣に三十歳くらいの黒い髪の男性が座って、やはりケルシュを飲んでいた。

 一杯飲み終わって、二杯目を注文している頃(何しろ二百ミリリッターなので、あっと言う間に飲み干してしまう)どちらからともなく隣の男性と話を始める。自分たちは日本人で、ケルンに住んでいる息子訪れている。彼は明日ボンでハーフマラソンを走るので、応援に行くという説明をする。彼はトルコ人、家族はマンハイムに住んでいるのだが、彼の働く工事現場が今ケルン近郊にあるので、今単身でケルンに来ているとのことであった。

ドイツにはトルコ人が数多く住んでいる。第二次世界大戦の後の復興期に「ガストアルバイター、出稼ぎ労働者」として大量にトルコ人を雇用したからである。どうして、ドイツはトルコ人の労働力に頼ったのか、その男性に聞いてみる。

「ドイツとトルコは第一次世界大戦の時、一緒に戦ったからね。それに、当時は東ヨーロッパの国が軒並み社会主義政権で、トルコが一番近い労働者供給元だったんだ。」

なるほど、「アラビアのロレンス」の映画でも確かにドイツとトルコは組んでいた。

「しかし、今となって、失業者が増えればやっかいものとして嫌われる。帰れと言われても、子供たちはドイツで育っているし、トルコに帰っても職はないし、無理だよな。」

彼はそう付け加えた。彼は、せめて自分が英語を話せたら、デンマークやスウェーデンなどもっと条件の良い国で働けるのに、とも言った。やっぱりこれからは英語の時代らしい。

 

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