京都の桜

 

 時間は前後するが、関西空港から京都に向かう特急「はるか」の中で、私はウーロン茶を飲みながら、大阪の町を眺めていた。ウーロン茶のペットボトルには「福建省有自信推奨品美味健康、最適於運動後弐吃、完油月弐菜希後飲用」というラベルが。どうして、中国語なのかと思うが、何となく有難い物を飲んでいるような気がしてくる。

 大阪の桜は「満開」が終わり「散り初め」というところか。日曜日ということで、列車の窓から見ると、花見をしている人たちや、花見の「場所取り」をしている人たちが見える。大阪と言うところは、建て込んだ場所である。公園なども狭いものが多い。そんな狭い公園の、数本の桜の木の下でも、やはりシートの上に、酒と料理を広げて花見をしている人たちがいた。そんな光景を見ていると、「花見」が、日本人にとことん深く根付いた習慣であることを、改めて感じてしまう。

 京都駅からのタクシーの中で、運転手に、

「今日は花見で人出が多いから掻きいれ時でしょう。」

と水を向けると、

「今日はどこも車で一杯や。渋滞がひどうて、どうにもなりまへんわ。」

という返事。タクシー業もなかなか難しい商売のようである。

 京都に着いた翌日から二日間は雨。その雨で、桜はかなり散ってしまった。三日目の朝、早く目が覚めた。前日までの雨は止んでいる。六時に私は家を出て、鴨川の堤に行ってみた。鴨川沿いの遊歩道は、これまで私のジョギングコースであった。今回は、走れないので、そこを歩くことにする。堤防に植えられたソメイヨシノはほとんど散ってしまい、残った花の間からは薄い緑色の葉が、顔を覗かせ始めていた。北大路橋から北山橋に向かって歩く。この辺り、東側には、ソメイヨシノではなく、ベニシダレザクラが植えられている。シダレザクラはソメイヨシノより少し遅れて咲くので、その時ちょうど見ごろであった。雨上がりの雲の残る空と、青みがかった山を背景に、濃いピンクの色が映え、「息を飲むほどの美しさ」という言葉があることを思い出した。

 川沿いをブラブラ歩いていると、早朝トレーニングの一段が横を通り過ぎていく。某大学の女子陸上部。昨年までは、私の高校で体育を受け持っていた原田先生が、自転車で伴走をされていた。今年は、若いコーチが伴走している。よく見ると、高校の頃、一緒に練習したこともある、元紫野高校の森川君。そうか、原田先生は引退して、彼が跡を継いだんだ。時の流れを感じてしまった。

 今回は何となく、桜前線を追いかけるような日程になってしまった。水曜日に東京に向かったが、東京は桜が満開。週末に金沢に向かったが、金沢の兼六園、金沢城跡、卯辰山でも見事な桜を見ることができた。桜の咲いている時期って、もっと暖かいのではないかと記憶していたのであるが、どこへ行っても、結構寒い。特に金沢では外を歩いていると、手が冷たくなってくるくらい。花見とは寒い目に合うものなのだと、再認識した。

 

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