天神さんとトロイメライ

 

天神さん名物、撫ぜ牛。もう角を折らないでね。

 

五月二日、ふらつく頭で九時に父の家へ着く。土曜日は父がデイサービスに出て行く日だ。九時過ぎに、若い女性が運転する小さなライトバンで迎えに来た。なかなか明るい、さわやかな印象のお嬢さん。父が助手席に座る。その後ろには席がない。父に聞くと、後から乗ってくるお婆さんが車椅子のため、その日は座席のない車を使っているそうだ。

北野天満宮の前を通る。有り余るほど時間があるので、「何となく」という感じで入ってみる。ここへ来るのも久しぶりだ。最近、境内で皆が「撫ぜ撫ぜ」する牛の角が折られたというニュースを、インターネット読んだことがある。

ご存知のように、天神さんは学問の神さん。境内には「何々大学合格祈願」、「何某高校合格祈願」、「何たら幼稚園国立文系コース合格祈願」などと書かれた絵馬がぶら下がっている。そう言えば、うちにも受験生がいたっけ。スミレのために大学合格祈願の絵馬を書くことにした。四百円で絵馬を買い、備え付けの筆で「ダーラム大学合格祈願、川合スミレ、十八歳」と書く。ケンブリッジ大学を「ソデ」にされたスミレの現在の第一志望は、イングランド北方、スコットランドとの国境に近いダーラムの大学。厳密に言うと、息子のワタルも九月から大学院に進むのだが、彼はもう合格通知をもらっているみたいだし。

僕の書くのを見ていたオヤジが、

「兄ちゃん、裏だけ違うて、表にも『奉納』と書かなあかんねんで。」

と言う。そうですかと、ひっくり返し、牛の絵の横に「奉納」という文字を書き加える。

境内には静かだった。独りだけの若い女性もいて、神前で手を合わせている。若い女性が「天神さん」に何をお祈りするのだろうと考えてしまう。

その日は二時からサクラの家で、ピアノの練習をした。サクラの家のピアノはリビングルームにある。リビングルームには小さな囲いがあり、その中には犬のルナが住んでいる。二時間ほどピアノの練習をする。その間サクラは家の中の掃除をしていた。

掃除を終え、シャワーを浴びた彼女がリビングルームに現れる。僕は個人的に「風呂上りの女性」の魅力に弱いのだが、今そんなことは関係ない。ともかく、彼女のヴァイオリンと僕のピアノで、シューマンの「トロイメライ」を合わせてみることにした。小さい頃、一度ヴァイオリンをやったことがあるという彼女は、結構上手い。音にも伸びがある。案の定、僕のピアノは上手く弾けない。弾けないところは何とか和音だけで誤魔化す。二回目のトライのとき、娘のマヤがリビングルームに入ってきて、犬のルナと共に聴衆に加わった。とにかく、サクラは喜んでくれたし、娘のマヤもパチパチと手を叩き、上手いと言ってくれた。一緒に弾くことが、こんなに楽しいことだとは知らなかった。

「次はもっと高度な曲に挑戦しようぜ。」

とふたりで誓い合う。やっぱり、音楽は一緒にするものだ。もちろん個人の技術の上に。

九時ごろに眠るが十二時頃に眼が覚める。イズミの携帯に電話するとまだ起きていてレポートを書いていた。五十二歳の社会人大学院生は大変なようだ。

 

スミレのために書いた絵馬。

「ラブラブになりたい」という絵馬も。ちょっと神様が違うのでは。

 

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