立命館大学

 

キャンパスを闊歩する立命館の学生さん。イズミさんではないので誤解のなきよう。

 

 串かつの店「さいもん」は、サクラがときどきアルバイトをしているという店。サクラとマスターと奥さんの間を「阿吽の呼吸」で注文と会話が進んでいく。残念ながらイズミは娘さんの具合が悪くなりすぐに帰った。その直後、マリコさんという女性が現れた。彼女は「ボタニックアート」を専門としているという、口元に小さなホクロのある美女。サクラとは、英国はギルフォード大学留学中に、学食で並んでいるときに出会ったという縁だという。「ボタニックアート」と言うのは、英国で好まれる、植物の精密画で、彩色されたエッチングなどはなかなか魅力的だと思う。マリコさんは蘭の研究もなさっているとか。

「お花が好きなんですね。」

と言うと、

「高校の頃エンゲイ部に入っておりましたの。」

「ほう、漫才や落語もお好きだったんですか。」

と変なボケをかましてしまい、サクラに睨まれる。

とにかく、美女二人に囲まれ、やたら楽しかったのは覚えている。そのうち、サクラが、

「ケベ、目ぇ開けて寝てるで。」

と言った。朝の事件と、時差ボケ、それからあった「イロイロ」で急に疲れが出てきたらしい。朦朧としている僕をサクラはタクシーに乗せた。

「明日も早いんやからね。」

 

 十月二十四日。父は気分が戻ったらしく、八時前には起き出したが、僕の気分はイマイチで、自分の布団を片付けた後、父のベッドでまた九時半まで眠る。十時半に、立命館大学でイズミと会う約束をしていたので、十時には家を出る。空気は暖かい上に湿気がある。僕はセーターを脱ぎ、シャツの上に直接ジャケットを羽織って歩き出した。

 イズミは四月に立命館大学の大学院に入った。「生命倫理学」なるものを専攻しているらしい。僕も、定年後は大学に戻って博士号に挑戦しようと思っているので、彼女には先を越されたことになる。

大学院でイズミは英語の論文に苦労をしている。そら当たり前でっせ。普通のおばさんが急に大学に戻って、専門用語ギッシリの論文を、まして英文で読めまっか。それで、僕は論文を先に読んで、要旨を彼女に教えるという、英語の家庭教師的なことを四月からボランティアでやっているわけだ。

 論文を読んでいると、書いてある内容に興味が湧いてくる。それで、日本に帰った時、授業を聴講させてくれるようにイズミに頼んだ。イズミがそれをひとりの教授にそれを頼んでくれ、今日はO先生の授業に参加させていただけることとなっていた。

 

 立命館の正門に着きイズミを待つ。昨夜、今日の授業で使うテキストということで、法学と医学の論文を渡されていた。それに目を通さねばならないのだが、僕は、目の前を通り過ぎる女子学生の列にすっかり目を奪われている。皆、「よそいき」の格好をしている。ショートパンツ(と言うのだろうか)の娘が多く、彼らの子ヤギのような足がおいしそう。狼になった気分。普段若い日本人の女性に囲まれることがない僕に、この環境はあまりにも刺激的過ぎる。

 イズミが現れ、一緒に授業のある建物へ向かう。立命館衣笠キャンパスには何回も来ているのだが、新しい建物が増え、すっかり変わってしまっている。授業のある建物の入り口で松葉杖をついた髪の毛を短く刈った女性に出会う。彼女がO先生。ぎっくり腰になってしまったという先生に挨拶をする。

「ロンドンの川合だす。今日はよろしゅうおたのもうします。」

 

 十時四十分からの授業は、「生面倫理、安楽死の歴史」についてだった思う。学生は僕も含めて六人。最初に、飛び入りの僕が、ロンドンから来ましたと、自己紹介をする。

 授業は、テキストに選ばれた論文をひとりが要約し、重要な場所で先生が学生に質問をしていくという形で進められた。学生と言っても、今日発表をしているトシミツさんなど、お歳は僕よりまだ上のような気がする。ある質問で誰も答える人がいなかったので、僭越とは思いつつ発言させていただく。やっぱり、何事も参加しないと楽しくないよね。

 授業の後で、O先生は僕に、どうして生命倫理学に関心があるのかと尋ねてこられた。

「イズミさんの英語の論文を一緒に読むうちに内容に興味を持ち始めまして・・・」

と述べる。

「あなたは、イズミさんの英語の家庭教師みたいなものね。」

O先生はコメントした。へえ、その通りだす。「生命倫理」という学問を理解するには、医学、生物学、社会学、公衆衛生学、法学等、多岐に渡る知識が必要で、イズミの送ってくる英語の論文の分野も内容も多岐に渡っている。分かりやすい論文もあるし、「ええかげんにせえよ」と腹の立つくらい難解な論文もある。英語の論文を読むことは、イズミを助けるだけではなく、僕の勉強にもなるのでよい。

 

 学食で昼食を食べる。不思議なことに、キャンパスには何台も観光バスが停まり、そこから高校生が乗り降りしている。立命館大学は駐車場業も始めたのだろうか。竜安寺、金閣寺、仁和寺と、観光地に近いもんね。まあ、その高校生の中から将来の受験生、学生が現れるなら、大学にとっては二重に利益になるかも知れない。

「家庭教師の報酬として、京都では『何でも』美味しいものを食べさせてあげるからね。」

とイズミは言っていた。僕は、学食の麺類コーナーで「にしんそば」を注文した。

「この三百八十六円の『にしんそば』が『京都での美味しいもの』なの?」

とイズミに言う。彼女は自分の皿から、シュウマイをひとつ取り僕にくれた。彼女の行動パターンは三十年間全く変わっていない。

 

その後も、三時間イズミに拉致された。英語の論文について質問あるとのことで、大学の傍にある彼女の実家へ連れて行かれた。お父さんお母さんもお留守の家に勝手口から上がりこみ、食堂のテーブルに並んで座りながら、僕は彼女の質問に答えていった。難しい質問があると、僕は時々熟考のために横のソファに場所を移した。

 

立命館のキャンパス。昔は衣笠球場という「松竹ロビンス」の本拠地でした。

 

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