地獄八景亡者戯聞き比べ − 桂米朝の功績

 

 まともに演じると一時間を越えるという破天荒なこの噺を世に出し、上方落語の代表的な演目としたと言う点、これは一重に人間国宝、桂米朝の功績なのです。米朝師匠は、落語の枕で、この「アホみたいに長い噺」が百何十年も前にできたこと、自分が三十代から演じていることを語っておられます。

 また、CDの解説の中で、米朝師匠は、

「私は文の屋かしく(後に三世笑福亭福松となる)師から教わりましたが、これはおそろしく古い型でしたので、大きく手を入れてやりだしたのが昭和二十八、九年頃のことでした。」

と述べておられます。ともかく、米朝が新たに作ったとも言っても過言でないこの話を、弟子たちが、少しずつ手を加えてやっているということなのでしょう。従って、米朝は、五人の演者の中でも、元祖、本家、別格大明神なのであります。

 また、米朝さんは、同じくCDの解説の中で、

「もともとこの話は、その時その時の世相流行などをともに入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。・・・私の録音テープが何種類か残っていますが、今聞いてみると、十年前、二十年前、三十年前の、当時の世相がわかって別の興味があります。もうはっきり老人になってしまった現在の私には、この世の変遷についてゆけなくなったのが、この落語をやれなくなった一番大きな原因です。」

と書いておられます。まさにその通りです。五人の演者による話を聞いていると、その時々の「当時はタイムリーであったエピソード」散りばめられており、それが可笑しくも、懐かしくもあります。

 

 米朝、枝雀、吉朝、文我、文珍のうち、枝雀と吉朝は既に故人となりました。残念なことです。特に吉朝は「たちきり」をCDで聴いて、この人はすごい、一度機会があれば生で聴きたいなと思っていたところ、二〇〇五年に、ガンで死去された記事に接し、大きな衝撃を受けました。京都の父母も、吉朝が好きで、惜しい人を亡くしたと言っております。

 

この五人の中で、実際の高座を見たことがあるのは枝雀だけです。確か大学一年の頃、と言うことは一九七七年、河原町の京都府立文化芸術会館での高座を、仲良しのイズミちゃんと、彼女のお母さんと、三人で一緒に見に行きました。その日、枝雀さんは、何故か、何を演じるか決めておられなかったのです。今考えれば不思議ですね。それで、高座に上がるなり、

「今日は何をやりましょうかねえ。」

てなことをおっしゃった。間髪入れず、隣に座っているイズミちゃんの

「宿替え!」

という声。結局、彼女のリクエストが通り、その日のネタは「宿替え」になったのを覚えています。実際、枝雀の演じる「宿替え」は、笑いの芸術品でした。

 

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