食いしんぼうのミリアム

ミリアムと長女のミドリ、マーブルクにて。

ドイツで六年余り暮らしたが、その間の一番思い出深い人物はミリアムという少女である。田舎街でののどかな暮らしを思い出すと、いつも側に彼女がいる。

ミリアム・クラークと初めて出会ったとき、彼女はまだ四歳くらいだった。僕らは当時、森の前のアパートの二階に住んでいた。朝、鳥の声が目覚し時計代わりになるような所だった。ミリアムの家の庭は、アパートの前の駐車場をはさんで反対側、森の中へ続く小径に面していた。その道が坂になっているので、僕らの部屋と彼女の家の庭がちょうど同じ高さで、うちの窓から彼女の家がよく見えた。最初、幼いミリアムが、近くの道端で遊んでいるのを時々見かけた。

僕がドイツに転勤になり、妻とマーブルクという人口六万人ほどの小さな町に住み始めたとき、僕ら自身の子供はまだいなかった。ミリアムともう一人モニカというミリアムより少し大きい女の子が、妻になついて、時々家に遊びに来たり、妻が買い物に行く時について行ったりしていた。モニカはそのうち、うちへ寄り付かなくなったが、ミリアムは時々顔を出した。妻もまだドイツ語がそれほど上手くなかったので、ちょうど子供と話をするとレベルが合ったのかも知れない。あるいは、妻には子供を引きつける魅力があったのかもしれない。とにかく、ミリアムは我が家が気に入ったようだった。

マーブルクへ来て一年半ほどしてまず、息子のワタルが産まれた。それを機に、ミリアムはほとんど毎日僕らの家へ遊びに来るようになった。ミリアムは四人兄弟の三番目で、ふたりの兄と妹に挟まれて育っていた。お父さんは、近所の老人ホームで、お年寄りの看護をしていた。兄弟の中で育っているせいか、強情なところがあり、自分より小さい子には親切だが、同年代の子に対しては、少し挑戦的なところがあった。

我が家でのミリアムの興味はふたつ、赤ん坊の世話と、食べることだった。彼女は、幼い息子に、御飯を食べさせたり、ミルクを飲ませることに興味を持った。妻が息子にミルクを飲ませていると、

「マユミ、わたしも赤ちゃんにミルクを飲ませていい。」

と聞いた。その他、妻が赤ん坊にしていることを、何でも自分でもしたがった。人形で遊ぶ代わりに、息子を人形がわりにして遊びたかったのだろう。ミリアムは長時間あきもせず、赤ん坊の相手をしていた。

同時に、ミリアムは妻が作るが食べ物に強い興味を示した。妻が料理をしていると、

「マユミ、わたしも少し食べていい。」

と必ず尋ねた。子供というものは、食いしん坊なようで、食べ物に対して案外に保守的なもので、普段食べているものに比べ、少し変わったものには、手を出さないものである。ミリアムの兄のアレキサンダーも時々うちに遊びに来たが、彼は滅多に日本の食べ物には興味を示さなかった。しかし、ミリアムは例外だった。握り飯、お餅、せんべい、焼きそば、その他の日本食も平気で食べ、それをとても気に入っているようであった。

「マユミは料理がうまいわね。」

彼女はいつも言っていた。特に、日本の塩味のせんべいが好物で

Japanische Kekse (日本のビスケット)ある。」

と妻に催促していた。また、自分の家で昼御飯を食べてきたはずなのに、うちで、昨日の残りの唐揚げでもう一度御飯を食べたりしていた。そんなわけで、ミリアムは年齢が進むにつれだんだんと太りだした。

息子の生まれた翌年、娘のミドリが生まれた。ミリアムは女の子の方が気に入ったのか、前にも増して、うちのアパートで過ごす時間が長くなった。学校が終わるとうちに来て、夕方、ふたりの兄のどちらかが迎えに来るま、でずっとうちにいることもしばしばだった。娘がよちよち歩きになると、娘の手をひいて、近所を連れまわしていた。また、世の中の母親が、子供に言うような注意事項、例えば、

「御飯の前は手を洗いなさいよ。」

「御飯はこぼしてはだめですよ。」

などを、お母さん気取りで赤ん坊の娘に言うのだった。

目の前に、一枚の写真がある。一歳の誕生日を迎える頃の娘のミドリが草の上に座っていて、娘の後ろに顔をくっつけるようにしてミリアムが写っている。娘は手にタンポポの綿毛を持っており、ミリアムが後ろから口を少しとがらして、綿毛を吹いてやっている。この写真を見ると、ミリアムがお姉さんぶって娘を叱る声が、聞こえてくる。

土曜日の午前中に、街の中心にあるエリザベート教会の裏で開かれる青空市場に、野菜や果物、その他の食料品を買いに出かけるのは僕の役目だった。普段は駐車場になっている広場に、十数軒の八百屋、肉屋、チーズ屋、花屋、パン屋、植木屋等が並ぶのであった。若葉の頃など、教会の前に車を停め、木漏れ陽がきれいな教会の中庭を抜け、マーケットに行くのはとても清々しい気分だった。また、寒い冬など、黒々としたゴシック風教会のシルエットを背景に、人々が白い息を吐きながら集まっている様子は、それなりに風情があった。

数軒ある店の中で、モニカというお姉さんのいる八百屋が特に繁盛していた。安くて品物がいいという話だが、僕には、ドイツ人にしては小柄だが、チャーミングで威勢のいいモニカお姉さんの貢献度の方がはるかに高いように思われた。値段がよく分からない僕でさえ、何となく、彼女の店以外で野菜を買う気になれなかったからだ。買い物には、大きな袋か、リュックサックを持って行った。ジャガイモ一キロとか買うと、計った後のジャガイモを、ザルからリュックサックの中にドドッと入れてくれるのである。卵などは、スーパーマーケットで買ったときの紙のパッケージを持って行って、その中に入れてもらった。

土曜日の買い物には、大抵息子と娘がついて来た。そして、ミリアムも一緒だった。ミリアムもその頃には、小学生になっていた。時々、お母さんのヘルガに頼まれて、買い物メモと、布袋を持って来て、彼女も一緒に買い物をした。ミリアムは時々、自分の小遣いでアプリコーゼ(スモモの一種)を買い、娘に食べさせていた。

「これをあげるから、あなたはいい子にしているのよ。」

などと、お母さんのようなことをいいながら。

雪の積もった日には、ミリアムはそりを持って子供達を誘いに来た。彼女は娘をそりに乗せて、そりを自分で引っ張って、森の前の馬の放牧場に連れて行った。そこで、娘をそりの前にのせて、一緒に滑るのである。幼いときから、向こう見ずな性格の娘は、そりのスピードを楽しんで、はしゃいでいた。僕も、ミリアムのそりを借りて、息子と一緒に滑り降りたが、ブレーキが効かず、馬小屋の横に積んであった藁の山に突っ込んだ。息子は藁まみれになって泣き出した。その後しばらく、

「パパとそりをしたら、馬さんの御飯にゴッツンした。」

と、息子は言っていたものである。

天気のいい日は、うちの子供達にミリアムや妹のレナーテも連れて、よく森の道を登って、丘の上までいった。頂上にはヴィルヘルムトゥルムと言う名の見張りの塔が建っていた。丘の上からは、川を挟んだ向こう側の丘の上に城が見えた。城の回りを取り囲むように、古い家々が丘の斜面に建っている。その家々の建っている辺りを街の人は「上の街(Oberstadt)」と呼んでいた。霧の日など、城が霧の海の中の島の上に浮かんでいるように見えた。見張りの塔の側に、カフェがあった。ここでアイスクリームを食べるのが子供達の楽しみであった。僕もここでビールを一杯飲む。その後は、ジグザグになっている山道を下り、下のブランコや滑り台のある広場で少し遊んでいく。再び雑木林を抜けて行くと、もとの森の入口に戻るのだった。

ミリアムに感謝しなくてはいけないことも多い。彼女を通じて色々な人と、知り合いになれたことだ。

ミリアムの家族は敬虔なクリスチャンで、彼女は家中で、日曜日には教会へ行っていたし、食事も前には、彼女の家族は必ずお祈りをした。ある日曜日の朝早く、ミリアムがうちへ来て、息子と、娘を、Kindergottesdiesnst(子供の為の礼拝)に連れて行っていいかと聞いた。ミリアムがふたりの子供の手を引いて出て行き、僕も子供達の後を追った。ミリアムが子供たちを連れて行ったところは、幼稚園の二階で、そこに十人くらいの子供が集まっていた。先生役の大人がひとり。その指導で、子供達がはさみで紙を切りぬいて、何かを作っていた。そこは、日曜日の午前中、大人達が教会の礼拝に出ている間、子供達を預かる場所だったのだ。

次の日曜日から、朝十時前になると、ミリアムは必ずうちのふたりの子供達を連れに来た。ふたりとも喜んでミリアムについて行った。そうなると、僕は、子供だけ預けて、自分は家へ帰るわけにはいかない。僕も、毎日曜日礼拝に出るようになった。

僕らの住んでいたアパートの一筋向こうの通りの坂を登るように歩いていくと、三百メートルほど先に、タボアと呼ばれているキリスト教の施設があった。そこで、人家は終わり、その先に馬の放牧場があり、その向こうは森だった。そのキリスト教の施設には、ミリアムのお父さんが勤める老人ホーム、看護学校、そして毎日曜日礼拝のある教会があった。三年ほどの間、日曜日の朝には、その教会に通った。

礼拝の日は、先ず、入り口で「歌の本」を受け取って中に入る。本の中には、最後に皆でするお祈りの文句を書いた紙も挟んである。最初に歌を何曲か唄ったあと、三十分くらいの話がある。ドイツ語での話の内容はよく分からないことが多かった。しかし、歌を唄うことは楽しかった。そして最後は「Vater im Himmel(天にまします父よ)」のお祈りを唱和して終わるのだった。なかなか清々しい気分なれるので、礼拝に出席するのが毎週楽しみになった。

教会は土地のコミュニティーの中心だった。そこで、ミリアムの家族から色々な人を紹介された。色々な人から話を聞くにつれて、そこへ来る人達が、自分の出来る範囲内で、出来るだけのことを他人に対して行い、助け合って生きていることを知った。

実際、僕たち家族も助けてもらった。三人めの子供のスミレが産まれるとき、妻がすぐに退院できなかった。僕も仕事に出なければならない。その間、当時四歳になる息子と、二歳になる娘を、日中ミリアムの家に預かってもらったのである。朝、子供達を起こして、まだぼうっとしている二人の口の中に、パンを押し込んで、家を出る。息子が泣いてようが、無理矢理幼稚園の先生に預け、その後、娘をミリアムの家に預ける。昼にミリアムの母親のヘルガに、同じ幼稚園へ行っている妹のレナーテと一緒に息子を連れて帰ってもらう。そして、そのままふたりを夕方まで預かってもらうのである。まだおむつの取れない娘をヘルガは慣れた手つきで世話してくれ、ミリアムと三人の兄弟が、かわるがわる相手をしてくれたようで、息子と娘は、泣きもせず、クラーク家で楽しく過ごしていたようである。夕方、子供達を迎えに行って、夕食を作って食べさせ、風呂に入れて、一緒に寝た。

余談になるが、子供達をクラーク家に預け、車を運転し、会社に着いたとき、正直ほっとした。会社に着いて、解放感を味わったのは、後にも先にもそのとき一度きりである。

反対に、ミリアムをうちの家で預かったこともある。ミリアムの両親が二週間イスラエルに旅行することになった。その間、クラーク家の四人の子供達、ハリー、アレキサンダー、ミリアム、レナーテはそれぞれ別の家族に預けられた。その時、僕の家でミリアムを預かった。彼女は、うちの息子や、娘の前では、お姉さんぶっているくせに、夜になると、寂しくなってしくしく泣き出した。抱っこをして、よしよし撫ぜてやったことを思い出す。

助け合いの精神はだんだん我々の家族にも浸透し、同じアパートの、上の階に住む老夫婦のご主人が入院されたとき、車を運転できる妻が、奥さんを送り迎えしてあげ、とても感謝されたこともあった。

我々の家族も、いよいよマーブルクを離れる日が来た。僕がロンドンに転勤になったからである。朝からトラックが来て家の中の物を運び出した後、その日の夜は、友人の家に泊めてもらうことにした。夕方、もう一度、息子を連れて、六年余り住んだ部屋に別れを告げに行った。三人めの娘が産まれた夜、妻を連れて病院へ行き、真夜中に部屋へ帰ったら息子が起きていて、玄関で泣いていたのを思い出した。その同じ玄関で、その頃は五歳になっていた息子を抱きしめて少し泣いた。翌日、僕ら家族五人は、ミリアムの家族、マユミが病院に送り迎えをした老夫婦に見送られてマーブルクを離れた。

ロンドンに住むようになってからも、ミリアムは時々電話をくれた。ある時、療養所にいるという電話があった。聞くと、肥満を直すために療養所に入っているという。彼女の飽くなきまでの食べ物への執着が、療養所に入るまで太らせたのだ。その時は、

「八キロくらい体重が減った。」

と言っていた。その後しばらくして仕事でドイツを訪れたとき、再びマーブルクのクラーク家に顔を出したが、ミリアムは相変わらず太っていた。そして、大きなアイスクリームを買ってほおばっていた。

ミリアムと、母親のヘルガがロンドンの我が家に、夏休み二週間ばかり滞在したこともある。仕事を終わって、電車に乗り、電車が家の近くの駅に着いた。夕方の八時頃であるが、まだ陽が照っていた。ホームのベンチにミリアムが坐っていた。

「あんたを迎えにきたの。」

と彼女はドイツ語で言った。

「それはどうも有り難う。今日はいいことがあったかい。」

僕もドイツで答えた。ふたりで家に向かって歩き出すと、突然彼女が日本語で、

「抱っこ。」

と言って抱きついてきた。うちの子供達が、僕に向かっていつも「抱っこ、抱っこ。」と甘えるのを見て覚えたらしい。僕は六十キロ。十三歳の彼女は少なめに見積もっても八十キロ、とても抱っこできるものではない。首にまとわりついたミリアムを、ずるずる引きずるようにしながら僕は家に帰り着いた。

 

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