鰤大根・イン・シカゴ

 

十月六日の昼前、僕は自宅を出た。妻が駅まで送ってくれた。ヒースロー空港までの片道切符と、ロンドン市内一日乗り放題「デイ・トラベルカード」は同じ値段だそうだ。それで、「トラベルカード」を買う。妻と電車の窓から手を振って分かれる。キングスクロスでヒースロー行きの地下鉄に乗り換える。何となく緊張していて、いつもなら電車の中で読む本も、その日は読む気にならなかった。

ヒースローで降りた僕は、地下鉄の切符売り場へ向かう。ちょうど自販機で切符を買おうとしていたおばちゃんに、

「この切符使ってください。僕はこれから飛行機に乗るので、もう必要ないですから。」

と言って「トラベルカード」渡した。おばちゃんは最初目を丸くした。そして、一通りお礼を述べた後言った。

セーフ・ジャーニー(お気をつけて)。」

 チェックインを済ませ、シカゴでお世話になるNさんに、シングルモルト「ウン年モノ」のスコッチを買う。少し腹が空いた。それで、これから乗るユナイテッド航空のビジネスラウンジへ入る。しかし、飲み物は自由に飲めるが、食べる物がピーナッツしかない。普通はサンドイッチくらい用意してあるよな。ちょっとひどいんじゃない、この航空会社。

 しかし、それは序の口だった。機内で最初の食事の際、ビールを注文しようとしたら五ドルだと言う。国際線で、そんなことを言われたのは初めてだ。誰が払うかそんなもの。最初の食事はまだしも、二回目の「食事」として渡された箱の中身はポテトチップスとチョコレートバー。いくら一度倒産した会社だと言っても、いくら燃料高で経営が苦しいと言っても、これって、あんまりじゃありませんか。

 機内では誘眠剤を飲んでもっぱら寝て過ごした。九時間余の飛行の後、午後六時半、夕闇の迫るシカゴ・オヘア空港に到着。入国審査も、荷物の受け取りもスムーズにいき、午後七時半には空港の外へ出た。辺りはすっかり暗くなっている。気温は十度くらいか。ロンドンより寒い感じがする。

 シカゴでは友人のNさんのお宅にお世話になることになっていた。Nさんは独身で、その日は仕事が終わってから九時半まで学校があるという。それで、Nさん家のすぐ近くにある日本料理店で一杯飲みながら待っていてくれと言われていた。オヘア空港からタクシーで、Nさんの住むマウント・プロスペクトという街に向かう。

 タクシーを降りて、Nさんに指定されていた日本料理店のドアを押す。女将さんと思しき和服の女性が、僕の顔を見るなり、

「カワイさんね。マラソン走りにいらした。」

と言った。Nさんか前もって見せの人に伝えていてくれたらしいが、人相書きまで回っていたとは。僕はカウンターへ案内された。時々店の大将とカウンター越しに世間話をしながら、Nさんのキープしておいてくれた焼酎を飲んだ。その店の鰤大根は絶品だった。

 

<戻る> <次へ>