ゴルディオスの結び目

 

 ベルンハルト・シュリンクの第二作である。純粋のクリミナル・ロマン、つまり犯罪小説と言えるであろう。シュリンクの作品は、年代とともに、ミステリー性が薄くなり、社会性が濃くなっていく。最新作は、もはや社会小説、心理小説と呼ぶことしかできない。「ゴルディオスの結び目」はそのミステリー性の一番濃い作品と言える。

 題名の「ゴルディオスの結び目」は、アレキサンダー大王の故事に由来する。大王がアジアに遠征したときに、ある神殿に、これまで誰も解いたことのない黄金の結び目があり、それを解いた者は、アジアの支配者になることができると言い伝えられている。大王はそれを解く代りに、一刀のもとにそれを切り離す。この小説の主人公が、この故事からヒントを得て、迫害者に対して、反攻に転ずるのである。

 

 主人公のゲオルグは、ドイツの法曹界での仕事を辞め、南フランスに移住し、翻訳で細々と暮らしを立てている。気ままな生活だが、彼女には逃げられ、仕事は稀にしか入らず、自分の選んだ道に対して後悔をし始めていた。

 そのゲオルグに幸運が訪れる。ブルナコフと名乗る翻訳事務所の所長と知り合いになれたからだ。ブルナコフの助言で、マルセイユにある翻訳事務所の社長が亡くなった際、その事務所を引き継ぐことができる。そして軍用ヘリコプターの設計書の翻訳という、大きな仕事を受注する。おまけに、フランソワーズという可愛い彼女も出来る。

 しかし、その幸せも、フランソワーズが、翻訳中の設計図を彼に隠れてカメラに収めているのを目撃した時、崩れ去る。フランソワーズはブルナコフが東側のスパイで、ポーランド人の彼女は、協力しないと祖国に居る肉親を殺すと脅されて、手を貸していると告白する。そして、自分の引き継いだ翻訳事務所の社長がブルナコフに殺害されたことや、これまでの全ての幸運が、ブルナコフの描いた筋書きによるものだと言うことを知る。つまり、ゲオルグは軍事機密の軍用ヘリコプターの設計図を持ち出させるために、利用されていたに過ぎなかったのだ。、

フランソワーズを愛してしまった、ゲオルグは、彼女を救い出そうと、ブルナコフに対して、一通りの反抗を試みる。しかし、ブルナコフの力は強大で、つぎつぎと嫌がらせを受けた後、警察にも見放され、何故か隣近所にも白眼視されるようになり、最終的には自分の住む町を去らざるを得なくなる。時を同じくして、ブルナコフもフランソワーズも、忽然と姿を消してしまう。

手がかりとなるのは、フランソワーズが残した写真一枚。ポーランドの教会の前で撮ったと言う。彼の友人がそれを見て、「これはポーランドではない、ニューヨークだ。」と指摘する。その手がかりだけを頼りに、ゲオルグはわずかに残った金を手に、ニューヨークへと旅立つ。しかし、何百万と言う、人の住むニューヨークで、一枚の写真だけを頼りに、フランソワーズを探し出すことが果たしてできるのだろうか。

これまで受身専門だったゲオルグは、少しづつ攻勢に転じる。自分を尾行する男を、逆に尾行することで、自分に煮え湯を飲ませたブルナコフの居所を突き止め、事件の核心に迫っていく。そして、最後に大きな賭けを行う。そのきっかけとなるのが、アレキサンダー大王の逸話、黄金の結び目なのである。

 

この作品の後に書かれた、私立探偵ゲルハルト・ゼルプのシリーズは、ドイツの暗い過去を背景にしながらも、ユーモア溢れる会話に富んだ、「笑える推理小説」なのであるが、その片鱗が、既に「ゴルディオスの結び目」のあちこちに現れている。主人公のゲオルグが、ニューヨークで親しくなった女性へレンにある調査を頼む。

「あなたのお陰で、足が疲れてスパゲティーのようになっちゃったわ。」

と言う、ヘレンの言葉に、

「でも、アルデンテ(固茹で)だろ。」

とゲオルグが答える。

このような、他愛もない冗談が、深刻なストーリーに散りばめられ笑いを誘う。ゼルプのシリーズになると、三、四ページの短い一章に、必ずこの手の落ちがついているのであるが。

 

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