「朗読者」

(Der Vorleser)

 

 

 ここ一年間で読んだ中で、最も面白かった本がベルンハルト・シュリンク(Bernhard Schlink)の「朗読者」(Der Vorleser)である。この小説の面白さは、ここ数年間読んだ本の中でも、一、二を争うものだと思う。

 この本を読んだきっかけは至って単純。いつも買い物をするメンヒェングラードバッハ市内の大きなスーパーマーケット、「レアル」の狭い本売り場に、ベストセラーと銘打って置いてあったのである。当時、娘から借りた「ハリー・ポッター」オリジナル英語版四巻をやっとのことで読み終え、次に読む本を捜していた私は、食料品と酒の買出しのついでに、積んである「朗読者」の一冊を深い意味もなく籠に入れ、何となく読み始めた。

 奥付によると、一九九七年に刊行されたこの小説は、ドイツでベストセラーになっただけではなく、米国でも、ドイツの作家による本としては初めてベストセラーリストの一位になったということである。私個人としては、スーパーマーケットの狭い本売り場に積んであったこと自体に、この本の人気の高さを感じるが。

 作者のシュリンクは、これも奥付によると、一九四四年生まれ。法律家である。そのせいか、彼の本には、やたらと法律家、その卵、あるいはそのなれの果てが登場する。

 

 さて、「朗読者」の粗筋である。

 主人公の「私」は十五歳の高校生のとき、通学の途中で気分が悪くなって、道端に吐いてしまう。その近くに住む女性がその嘔吐物を片付けてくれ、「私」を家まで送ってくれる。数ヵ月後、病気が治った「私」は、母親に言われて、助けてくれた女性のところへ花束を持ってお礼に行く。そこで三十五歳で市電の車掌をする彼女、ハンナと肉体関係を持つことになる。

「私」は両親に隠れて、ハンナとの関係を続ける。ハンナには奇妙な癖がある。「私」とのセックスの後、彼女は何故か本を朗読してくれと「私」にせがむのである。せがまれるままに「私」は古典から現代文学に至るまで、ゲーテからトルストイに至るまで、彼女に朗読してやる。

 「私」とハンナは、ある日二人でサイクリングに出かけて、森の中の宿屋に泊まる。夕食の際、ハンナは「私」にメニューの中から彼女の食べる料理を選ばせる。また、翌朝、ハンナがまだ眠っている間に、朝食のパンを取りに部屋を離れた「私」に対して、「すぐに帰るから」と言う置手紙がしてあるにも関わらず、捨てられたと誤解して、逆上する。そして、ハンナは自分の過去について一切語らない。

ある夏の日、プールで友達と遊んでいた「私」を遠くから眺めていたのを最後に、ハンナは忽然と町から消えてしまう。

「私」はその後、高校を卒業し、大学の法学部に進学する。そして実習のため、裁判を傍聴しに行く。その裁判は、ナチスのユダヤ人強制収容所で、火災に遭った建物の中にいた多くのユダヤ人を、外に出さす見殺しにした看守たちに対するものであった。その被告席にハンナはいた。彼女は戦争中、強制収容所の看守をしていたのである。

 「私」は裁判の途中、ハンナのかつての奇妙な行動から、彼女が字を読んだり書いたりできないことに気が付く。そして、ハンナがこれまで職や住む場所を転々と変えてきた理由が、自分が文盲であることを、他人から隠すためであったことを知る。 

裁判では、当時、数人の看守たちの中で、誰が責任者で、他の看守に対して命令を下したかが争点となる。その時の責任者による報告書が残っており、それを書いたのが誰なのかが、問題となる。ハンナは被告席で検事に「この報告書はあなたが書いたものですか。」と尋ねられ、最初は否定する。「筆跡鑑定をすれば分かりますよ。」と言われ、彼女は、証言をひるがえし、自分が書いたと認める。その結果、彼女は終身刑を言い渡され、刑務所に入る。

「私」は、ハンナが文盲であることを、公の場で証言しようかと、悩みに悩む。結局、強い罪の意識を感じながらも、彼女の意思を尊重し、沈黙する。そして、その罪の意識を償うために「私」の取った行動とは・・・

 

話はまだ続くのであるが、最後まで粗筋を書いてしまうと、これから読む人の興を殺いでしまうことになるのでこのくらいで止めよう。

ハンナにとって、自分が文盲であることは、最大のコンプレックスであり、他人には絶対知られたくない事実なのである。彼女はそれまで勤めたジーメンスの工場や、市の交通局で能力を認められ、昇進の話しがある度に、職場を辞めてきた。昇進すれば、読み書きの能力が問われるからである。そして、最後は、文盲であることを知られよりも、生涯刑務所で過ごすことを選ぶ。

読み書きが出来ないなら、大人になってからでも勉強すればよいし、その為の方法も、施設も色々とあるであろう。しかし、その為には、自分の秘密を誰かに明かさなければならない。ハンナのコンプレックスはそれさえ不可能にするほど強いものなのだ。

ひとりの人間が感じているコンプレックスには、他人には理解し難いものが多い。

例えば、私の知り合いである日本人の女性は、自分の背の高いことにコンプレックスを感じていると言う。彼女は百七十センチくらいのすらりとした体型で、決して旧ソ連のバスケットボールの女子選手のような二メートル近い「大女」ではない。しかし、日本では「大きい方ですね。」とこれまで何人にも言われ、それが嫌で嫌で仕方がなかったと彼女は言う。ヨーロッパに住むようになり、自分が女性の平均サイズになって、ほっとしたとのこと。近く日本に帰るので、それを考えると憂鬱になると、彼女は語った。

私の考えからすると、百七十センチの身長からは、優越感の感じるのが当然で、劣等感を感じる筋合いではないと思うのであるが、彼女にとってはそれが克服し難いコンプレックスとなっているのである。

人間というものは、他人が想像もつかいないようなところで、コンプレックスを感じている。ハンナの行動は、他人の価値判断とは無縁の、コンプレックスの原点を示しているようで、私には大変興味深かった。

 

裁判の中で、ハンナが裁判長に、「何故、そのような行為に及んだのか。」と問い詰められたとき、「では、あなたなら、そのとき、他にどんな方法があったの?」と裁判長に反問する場面がある。被告の方から裁判長に反問するなど、異例中の異例で、裁判長は唖然とし、激怒する。そして、結局この反問が、裁判長のハンナに対する心証を決定的に悪くしてしまうのである。

この反問は、ナチス時代を生き、結果的にナチス政権に協力する立場にあったドイツ人から、後の時代に、それを裁く立場にある人に対する共通した反問であり、これまで公には口に出すことの出来なかった反問であると思う。ハンナは当時、強制収容所の看守という立場であった。読み書きの出来ない彼女には、おそらくそのような職しか望めなかったのかも知れない。彼女は、職業として、義務として、ユダヤ人虐殺に手を貸した。裁判長はおそらく、ナチス政権に加担しなかったが上に、戦後公職に就くことが出来たのであろう。しかし、「当時たまたまある立場にいなかった人間」が、「当時たまたまある立場にいた人間」を裁くことが、果たして正義なのであろうか。裁かれる人間は「じゃあ、あなたが同じ立場にいたなら、どうしたのよ。」と問いかけたくなるであろう。そして、その反問は、これまで、小説、テレビ、映画など、公のメディアではタブーであったように私は感じる。これまでナチス時代にドイツ人が犯した罪については、厳粛に受け止め、正直に非を認めるのが当然であり、開き直ることなどはもってのほかであると言う、ひとつの「約束事」がドイツのメディアには存在すると私は感じていた。この点を覆す、作者シュリンクの見解と手法は画期的なものだと私は思う。

 

ナチス時代に、政権に協力する側にあった人間に対する作者の考え方は、同じシュリンクの探偵小説「ゼルプの正義」(Selbs Justiz)、「ゼルプの裏切り」(Selbs Betrug)の主人公、ゲルハルト・ゼルプにも表れている。ゼルプはナチス時代に検事であり、ナチスに対して非協力的な人間、敵対する人間を摘発してきた。戦後、公職を追放され、私立探偵として身を立てるのであるが、その後検事に復職しないかと言う打診を断った経歴を持っていると言う設定である。

彼は、自分がナチス政権の協力者の立場であったことを恥じてはいない。当時、自分に与えられた職務を忠実に実行しただけであると考えている。しかし、彼が起訴した人間が、その後苦難の道を歩いたり、あるいは命を絶たれたことに対して、責任は感じている。彼なりの責任と取り方が、請われても二度と公職には就かないという決心なのである。

彼の登場する二つの物語の中で、彼が立ち向かうのは、大きな化学会社であり、警察権力である。それは、「当時たまたまある立場にいた人間」、その結果、裁かれる立場になり、その後裏街道を歩むことになった人間が、「当時たまたまある立場にいなかった人間」、その為裁く立場になった人間に対する挑戦なのである。

ゼルプの立場は、まさにハンナと立場と共通するものである。

 

さて、この「朗読者」も含め、シュリンクの小説には、ほぼ必ず、筋がナチス政権時代の出来事と絡んでくる。先に書いたように、シュリンクはナチス時代に生きた人々のその後を、これまでにない斬新な切り口で描いている。しかし、シュリンクの本を何冊か読むと、余りにもナチス時代の話題に話しが戻ることが多いため、「もう、いいかげんにしなさいよ。五十年以上前のことなのだから、一度はそのナチスの残像から解放されて、楽な気持ちでのびのびと筋を展開したら。」とアドバイスしたくなる。

ドイツ人がナチス時代のこだわりから脱して物を考えられるようになるには、まだまだ年月が必要であると言うことであろうか。

 

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