「逃げていく愛」(Liebesfluchten

 

 一九九九年に出版された、シュリンクの最新作で、七つの短編を収める。前作の「朗読者」ではまだミステリーっぽいところがあったが、この本に収められている各短編には主に人間関係をテーマにしたものである。シュリンクはこの本で完全にミステリー作家と言う枠からの脱却に成功している。第一作の「黄金の輪」はほぼ完全な推理小説、犯罪小説であったが、作品を重ねるごとに一貫してミステリー臭が抜けていく。ベストセラーの「朗読者」でさえ、主人公ハンナの謎に包まれた過去が明らかになる過程を、捕らえようによってはミステリーと呼べないこともない。しかし、この作品群は題にもあるように、一貫して「愛」をテーマにした心理小説群である。

 

 

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「とかげを持つ少女」(Das Maedchen mit der Eidechse

 

 シュリンクの得意とする、ナチス時代の出来事と現在を絡ませた作品である。また、登場人物も父親が裁判官で息子が法学の学生。シュリンクの作品の典型的なお膳立てが整っている。

裁判官をやっている父親の部屋に「とかげをもつ少女」の絵が掛かっている。その絵を子供の頃から眺めていた主人公は、その絵とその中の少女に魅せられてしまう。絵を描写するという宿題で、お気に入りのその絵のことを少年が書こうとした時、父親は狼狽してそれを止めさせる。

ある日父親が突然裁判官を辞める。小さなアパートに引っ越し、家族の暮し向きは一挙に悪化する。しかし、父親はその絵だけは手放そうとしない。父親はその後酒浸りになり、身体を壊して死亡する。大学に進み家を離れていた主人公は、父の死後その絵を譲り受け、自分の小さな部屋に掛ける。

その後、私は父親が、ナチス政権時に、裁判官の地位を利用して、ユダヤ人から不法に金品を巻き上げ、それに感づいた同僚を有罪にしたという疑惑で、裁判官を罷免された事実を知る。それが事実とすれば、主人公の大好きな「とかげを持つ少女」の絵こそ、ユダヤ人から奪った「金品」ということになる。父親は、当時、多くののユダヤ人が収容所送りになることから助け、その謝礼としてその絵を貰ったと主張していた。

「私」は父親と絵にまつわる真実を突き止めようと決心する。そして、その絵がルネ・ダルマンというユダヤ系のフランス人画家によるものであることをつきとめる。戦争勃発時、画家ダルマンはストラスブールに滞在していた。そして、そこで裁判官をしていた父親と画家の接点にたどり着くのである。

主人公は大きく分けて三つの問題と直面する。

@     父親と画家と絵を巡る真実は何かと言う問題。

A     高価でいわくつき絵を所持している圧迫感。

B     絵に描かれた少女への憧憬。

それらを一気に解決する方法をついに主人公は見つける。それがこの物語の結末である。主人公の青年の一枚の絵に対するこだわりが異常に強すぎて、彼に感情移入していくにはちょっと抵抗があった。現在、第二次大戦中、ドイツ人がユダヤ人から奪った絵画、骨董の持ち主、その子孫への返還が今も続いている。現在、一枚の絵と言えども、それが戦争と関係すると、まだまだ過去を引きずるドイツ人には、なかなか純粋な鑑賞の対象とはならないのであろう。

 

 

「横っ跳び」(Der Seitensprung

 

 ドイツ人は、第二次世界大戦後、ナチス政権の崩壊により、それまでの価値観が一挙に崩壊するという憂目に会った。旧西ドイツの人達はそれでもまだいい。それ一回きりだったから。しかし、旧東ドイツの人たちは、さらにもう一度、東西統一の際、それまでの社会主義に根差した価値観の崩壊という辛い目に会わなければならなかった。五十年間に二度も、つまり一生のうちに二度も、それまでの行動基準、価値観を否定される、これは多過ぎると思う。

その二度目の価値観の崩壊、東ドイツの崩壊を背景にこの物語が展開する。ある夫婦が変革の荒波に揉まれて、その中で自分達の目指すものを模索する過程が、「西」から来た語り手、「私」の目を通じて描かれる。私自身、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統一、そうした一連の歴史的な出来事をドイツにいて体験するという幸運に恵まれた。「東西ドイツの統一」と呼ぶのは正しくない。「西ドイツによる東ドイツの併合」と呼ぶべきであるのだが。ともかく、そのときでさえ、「西」の人間にとって、「東」の人間がその変化をどのように受容していったかは謎であった。その謎の一部が解き明かされるようで、この物語は興味深い。

語り手である「私」は東西統一前に自分の住む西ベルリンから東側へ遊びに行き、そこである「東」の家族と仲良くなる。夫であるスヴェンと妻パオラは、東西統一の激動の時代を、巧みに乗り切り、「東」の人間としては珍しく成功者となる。夫、スヴェンは大きな家、高級車を買い求め、あちこちに旅行に出かけ、物質的に満たされることで幸せを感じる。

ところが、夫がかつて「シュタージ」(東ドイツ国家保安局・秘密警察)への内通者だったことを、妻は知る。裏切られたと感じた妻は、夫が大学の常勤教師に採用された日、その祝いの席で、夫の元を離れる決心し、「私」と肉体関係を持つ。しかし、その後、夫が秘密警察に内通したのは、デモに参加して逮捕された自分を助ける為だったことも知る。

題名の「横っ跳び」とは、これまで歩んできた道を捨て、横にある別の道にぴょんと乗り換えると言う意味で使われている。夫のスヴェンは、翻訳家から市民運動に転じ、秘密警察の内通者となり、統一後は大学に職を得る。自分の生き方、価値基準をそのときそのときに応じて巧みに変化させていくことにより、「東」の人間としては例外的な成功を収める。しかし、妻のパオラは、一緒に飛べないのである。夫の行動をそれまで、行動を共にしてきた仲間への裏切りであると非難する。

ここには敢えて書かないが、最後にこの夫婦のたどり着く先は、かつての「東」の人々の最も一般的な帰結を示しており面白い。「過去のことはいくら言ってもしかたがない、忘れましょう。明日を見据えて生きていきましょう。」と言うことになるだろうか。

ドイツでは、現在も、旧東側の社会主義体制の中での犯罪行為、例えばベルリンの壁での亡命者の射殺等に対して裁判が行われている。また、かつての秘密警察の協力者であることが分かると、社会的な地位が危ぶまれる。ナチス政権時代の後始末と同じく、過去はそれなりに清算しなければならないという、ドイツ人の好きな建前論である。しかし、一般の大衆はもっと別な形で過去を処理していることを示唆している作品であると私は思う。 

 

 

「もう一人の男」(Der Andere

 

役所を定年退職したがばかりの主人公、「私」の妻、リザが病気で亡くなった。葬式を済ませ、一人きりになった寂しさに耐え兼ねているところに、ある男から手紙がとどく。手紙の内容から、差出人は、バイオリン奏者であった妻と深い関係にあったことが察せられた。「私」は妻を巡る「もう一人の男」の存在に愕然とする。そしてその男に次のような返信を書く。

 

「お手紙拝見いたしました。しかしあなたの手紙はご希望の女性には届きませんでした。貴方の知っているリザ、あなたの愛したリザはこの世にはおりません。 Bより」

 

ところが、署名の「B」が偶然、かつて「もう一人の男」がリザを呼ぶ時に使っていた愛称のイニシャルと一致してしまう。男は手紙を誤解し、リザが死んだことを信じず、更に次のような手紙を遣す。

 

「愛する褐色の瞳よ。おまえは私の愛したあのリザでありたくないと言うのか。リザは私の為に死んでしまったと言うのか。

過去の出来事を思い起こすことが現在のおまえに苦痛であるがために、過去を葬り去りたいという気持ちはよくわかる。しかしその過去がまだおまえの中に生き続けているからこそ、現在のおまえに影響を与えているのだ。われわれが一緒に過ごした過去は、私の心の中と同じように、おまえの心の中にも生き続けている。それは素晴らしいことだ。また、当時私の手紙に対して返事をくれなかったおまえが、今回便りをくれた、これも素晴らしいことだ。そして『褐色の瞳』という私のつけた呼び名が気に入ってくれて、今回そのイニシャルの『B』を使ってくれたことも。

おまえの手紙は私を幸せにしてくれた。

ロルフより」

 

「私」の書いた手紙も曖昧なら、この「もう一人の男」ロルフの早とちりも極端である。「私」は死んだ妻に成り代わって、この男と文通をする破目になってしまう。妻がかなりの大金をこの男に注ぎ込んだことを発見し、怒り心頭に発した「私」は、この「もう一人の男」と対決すべく、男の住む町へと向かう。そして、喫茶店で男とチェスの盤を囲むことにより、いよいよその男と言葉を交わす機会を持つのである。

 この後、「私」が実はリザの夫であると気が付かない男と「私」の間で、奇妙な関係が生まれる。そしてその男の正体が徐々に明らかになっていく。「私」はその男に対し、復讐の筋書きを練り、それを実行していくのである。

 一人の女性の死を巡る話であるが、これは喜劇である。自分の妻に成り代わり、妻のかつての恋人と思われる男と文通してしまい、それに相手も気がつかないという不自然さはある。その不自然さの上で交わされる主人公と「もうひとりの男」との会話は笑いを誘う。観客のもう知っている事実に登場人物が気がついていないで、とんちんかんな会話を繰り返し、観客の笑いを誘うと言うのは、日本の「なんとか新喜劇」にも頻繁に登場するやり方で、喜劇としてはかなり古典的な技法であろう。それなり深刻な題材をあつかいながら、笑える作品に仕上げてしまう、シュリンクの得意技がいかんなく発揮されている作品である。

 しかし、最後に「私」が「もうひとりの男」に何となく同情どころか友情さえ感じているように思うのは、深読みのしすぎだろうか。

 

 

砂糖豆(Zuckererbsen

 

 筆者である私はある女性を好きになると、二度とその人を嫌いになれない。ただ、これまで好きになった女性との関係が全てハッピーエンドに終わるわけがない。別れが来る。こっぴどく振られたことが何度もあった。しかし、それでもその女性が嫌いになれない。その女性がが新たな男性と付き合い始めても、あるいは結婚しても、たまには会って話をしてみたいと思う。男と言うものは、女性の前では往生際の悪い、優柔不断な生き物なのである。

 その意味で、この物語の主人公であるトーマスには、何となく感情移入ができる。ベルリンに住む建築家である彼は、最初に同僚であるユッタと知り合い結婚する。そして二人の子供を設ける。幸せな家庭である。その後、彼は旅先でハンブルクの画廊の経営者ヴェロニカと知り合う。彼女はトーマスの絵の才能を見抜き、彼を画家としてデヴューさせる。トーマスはヴェロニカと愛し合うようになるが、妻のユッタには別れ話を切り出せないまま、ずるずると二人との関係を続け、ベルリンとハンブルクでの二重生活を送る。ついにその二重生活の重圧に耐えられなくなり、彼は友人と山歩きに出かけるが、そこで女子学生のヘルガと知り合い、肉体関係をもつ。町に戻ってきたときには、二重生活どころか、三人の女性と付き合わなければならい状態に陥る。常に、これではいけないと自省の念にかられながらも、建築家と画家として社会的に成功しており、それが経済的には許される彼には、その生活から決別する踏ん切りがつかない。またずるずると三人と関係を続けていく。

 ニューヨークに出かけた際のエピソードは面白い。絵葉書を三枚買い、三人の女性に一枚ずつ書き始める。何か気の聞いたことを書かねばならないと思いながらも、最終的に三枚とも「ドイツに戻ったらおまえと一からやり直そう」と書いてしまうのである。

 その生活の終わりは、彼がガンと診断された日に来る。二股どころか三股をかけるという、いわば三人の女性たちにひどい仕打ちをしてきた彼であるが、余命が数ヶ月と診断された自分に対して、三人とも冷ややかな点に、腹も立て、それまでの自分に反省もする。仕立て屋で僧服をあつらえたトーマスはは、それをまとい、放浪の旅に出る。

 結末はかなりアメリカの喜劇映画的である。三人の女性は、彼が考えていたよりはるかにしたたかであった。例えばユッタは、それまでトーマスが別れ話を切り出そうとすると、いつも巧みに話題を逸らせて彼にそれをさせなかった。それは、一見現実との対決を避けようとする彼女の弱さと思わせるのであるが、どっこい、それは巧みな計算の上なのである。雲に乗ってどこまで飛んでも、結局釈迦の手の中から逃げ出せなかった孫悟空の逸話のように、トーマスも三人の手の中であがいていたようなものだった。この物語を喜劇として幕を閉じる。

 「砂糖豆」と言うタイトル、これは主人公が政治的な野心を捨てて、現実的な価値観に入ることを揶揄して使われているのだが、完全にはその意味が分からなかった。

 

 

 

割礼(Beschneidung

 

 最近、二〇〇一年になってようやく、第二次世界大戦中のナチス政権下における、ユダヤ人の強制労働に対する補償問題が決着した。今回の補償問題を急がねばならない理由に、当事者が高齢化しており、補償を受けずに死んでいく人がどんどん増えていくということがあった。この補償問題は、一方で、戦後五十五年以上経った今も、当時のユダヤ人虐待の記憶は、ドイツ人とユダヤ人のみならず、世界中の人々の心に今もなお刻まれていることを表している。また、もう一方では、当時の直接の加害者、被害者が残り少なくなり、次の世代が大多数を占めつつあることを表していると思う。 

ドイツ人とユダヤ人。加害者と被害者。今後も二つの民族はその事実を背負って生き続けなければならないのだろうか。ドイツ人に限って言えば、戦争の際に生まれてもいなかった世代に、まだナチス政権下ドイツ人が行った行為に対する責任があるのだろうか。

 

ドイツ人男性アンディとユダヤ人女性のサーラが恋に落ちる。最初、アンディがサーラの親戚に紹介され、次にはサーラがドイツに招待され、アンディの親族や友人に紹介される。紹介する方は自分の親戚や友人がおかしなことを話し出しやしないかとひやひやだし、紹介される方も、自分の言動が相手方の気分を害することにならないかひやひやもの。緊張の連続である。

ふたりの間も、この話題は出してはいけないというタブーが存在し、何となくぎくしゃくしたものになる。ドイツのマスコミには、この種のタブーがいくつか存在する。いや、していた。「ドイツ人が戦争中に行った行為については、反省の弁を述べるだけで、開き直ってはいけない」とか、「テレビドラマでユダヤ人を悪者にしてはいけない」とか。そのタブーを皆が何となく受け入れ、それがドイツ人の義務であるように思っている。

さて、ドイツ人とユダヤ人のふたりの関係だが、結局のところ、民族的に言って加害者であり、男性でもあるアンディが折れる。彼は、カトリックからプロテスタントへの改宗ができるように、他の宗教からユダヤ教に改宗が可能なのだろうと考える。そこで、この小説のタイトルである、ユダヤ人独特の儀式が言及されるのである。果たして、他民族がユダヤ人に帰化することなど可能なのであろうか。

私個人の意見であるが、もしある宗教が、他からの改宗者を拒むなら、それはもう「宗教」とは言えず、単にその民族特有の「土着信仰」であると思う。

 

この小説の送るメッセージは、以下のサーラの言葉に凝縮されていると思う。

「話すことを止めないで欲しいの。」

とサーラが言う。

「どうして?」

とアンディは尋ねる。

「あなたが、私の頭の中を通り過ぎることが何であるか分かっていて、私についてもう何も知ることがないと思っているからよ。でも、私たちは二つの全然違った文化を持っているし、これまで二つの全然違った言葉を話してきたのよ。たとえあなたがドイツ語から英語に上手に翻訳したとしても。つまり、私たちは別の世界に生きているの。もしお互いに話すことを止めたら、ふたりは本当に別れ別れになってしまうわ。」

本当の理解、本当の融和のためには、絶え間のない会話が必要なのである。このことは何も他民族間、他宗教間の融和のためだけとは限らないと思う。夫婦においても、会社においても、会話を絶やさないということが、生まれた時間も、育った環境も違う人間が、末永くうまくやっていく秘訣だと思った。

 

 

息子(Der Sohn

 

 この物語を読んでいるとき、筆者はちょうど息子と日本を旅している途中だった。今はまだまだ親に依存している息子であるが、十年後彼が家を出て、独立したときに、父親と息子の関係はどうなってしまうのだろうか。ふとそんなことを考えた。そして、自分が死ぬとき、息子のことをどのような感情でもって思い出すのだろうか。そんなことを思いながら、この物語の結末を読んでいると、涙が出てきた。

騒乱の続く南米のある国へ停戦監視団に志願し派遣されたドイツ人の男。その国に到着した翌日、政府軍の将校と反乱軍の代表、酒びたりのカナダ人の同僚と、ジープに分乗し、自分たちの受け持ちの地域へ向かう。彼には離婚経験があり、その際かつての妻の元に残してきた息子に対してこれまでいつも罪の意識にさいなまれてきた。その息子も、大学を卒業し、医者の卵として、病院で働き始めた。前夜息子に電話をかけたのは、いわゆる「虫の知らせ」というだけだろうか。

今回彼の役割は、政府軍と反乱軍の間で合意された停戦協定を監視することである。しかし、同行する政府軍と反乱軍の代表の会話、あたりの様子を観察し、主人公は現在の停戦、平和の存在に疑問を抱き始める。その予感は的中し、その夜、宿泊している場所は何者かに襲撃され、車が破壊され、死人もでる。主人公は、その戦闘にいやおうなしに巻き込まれてしまう。

遠く離れた異国の地で、不本意ながら死ななければならないとき、思い浮かべることは何なのか。例えば、飛行機が墜落して、もう助からないと分かったとき、最後に人間が心に思い浮かべるのは・・・やはり、家族のことなのだ。

 

 

ガソリンスタンドの女(Die Frau an der Tankstelle

 

いつかどこかで見た光景なのだが、いつどこで見たかをどうしても思い出せない。よくよく考えて、数日後、あれはかつて夢で見た光景だったと思い出すことが数回あった。

まったくの余談であるが、これまで私の見た一番怖い夢。それは四、五才のときに見た夢だ。家族で旅行に行って旅館に泊まる。大浴場へ行って、子供の私だけ先に部屋へ戻る。部屋には既に布団が敷いてある。その布団の上で、ごろごろしていると部屋の戸が開く。父か、母か、姉かなと思ってそちらをみると、顔色の悪い、髪を振り乱した若い女性が立っているのもつらそうにふらふらと入ってくる。その女性は私の枕元まで来る。そしてそこでしゃがんで私に顔を近づける。そこで目が覚めた。

数年後広島かどこかへ家族で旅行したとき、部屋へ案内されて、「あれっ。ここどこかで着たことがある。」と思った。そして、それが夢の中で若い女性と会った部屋だと思い出した。その夜、大浴場へ行った後、ひとりで部屋に戻らなかったことは言うまでもない。

 

話はそれたが、この物語の主人公の繰り返し見る夢は、時間的にもっと長い。少年のときから、定年退職を目の前にした現在まで、繰り返し同じ夢を見ているという。それは、ひたすら真っ直ぐな人気のない道路を車で走り、人里離れたガソリンスタンドに入る。そこで給油のために出てきた女性と恋に陥り、そのガソリンスタンドで暮らすことになるという夢である。

定年退職して時間ができた男は、妻と一緒にアメリカ大陸を旅行する。西海岸をカナダから車で南下し、合衆国に入る。そして、人里離れた海岸沿いの道路を走っているとき、終に自分がこれまで何百回と夢に見た光景と遭遇するのである。ガソリンスタンドに入り、給油のために女性が中から出てくる。肌のそばかすまで、見覚えがある。さあ、この後、男は夢の中のように、そのガソリンスタンドでその女性と暮らすことになるのだろうか。読んでいて、次の瞬間の筋の展開に我を忘れる瞬間である。

 

この物語に登場する主要な女性はもちろん「ガソリンスタンドの女」なのであるが、彼女は言わば夢の中の登場人物、実体のない象徴的な存在に過ぎない。それ以上に興味を引くのが主人公の妻である。彼女は医者であり、これまでその職業で成功を収めてきた。主人公夫婦が中年になり、もはやお互いのセックスに興味を持たなくなる。ある朝、目が覚めたとき、彼は自分の妻の老醜と、強い体臭、彼女の鼾に耐えられなくなり吐いてしまう。これと同じ描写が「朗読者」の中にもある。主人公のミヒャエルがかつての恋人ハンナを刑務所に訪ねたとき、ハンナの体から発する老人独特の匂いに愕然とする場面である。ともかく、体からの匂いの変化というのは、人の老いを感じさせる大きな要素である。自分の妻でも夫でも、恋人でも、その匂いを感じることは嫌悪以外の何物でもない。いくら「きれいごと」を並べても、いくら相手を愛していていても、あなたがそこに感じているには「嫌悪感」ですよと、シュリンクにまた自分で認めたくないことを、認めさせられてしまった気がした。