パブロフの犬

 

solomon011

マングローブの茂る、熱帯の海を夢見て、さあ出発。

 

ロンドン発シドニー行、BA一五便は、予定の午後九時四十五分より約一時間遅れてヒースロー空港を出発した。その日は寒い夜。翼の上に氷や霜が付着しているとのことだった。そのまま離陸しては危険なので、「デアイサー」と呼ばれる、特殊な解凍液を噴射する車両で、翼の上の氷を解かしてからしか、出発できないとのこと。その「デアイサー」の順番がなかなか回って来なかったのだ。

飛行機の中で、僕は三席並んだ真ん中に座っていた。これは、僕が最も恐れていた事態だった。僕は「クローストロフォービア」、つまり閉所恐怖症。周りを人間で囲まれると、すぐにパニックを起こしてしまう。これまで何度も混んだ飛行機の中でパニックになり、過呼吸の発作を起こしていた。そんな僕がどうして旅行好きなのだろう。それも変な話だ。

今回はシドニーまでだけでも二十二時間の長旅。何とか通路側の席を確保しようとして、数日前から、僕なりに努力はした。切符を手配した旅行会社にも頼んでみた。インターネットのオンラインチェックインというやつで、席を指定しようと試みた。その結果は全て、

「あなたの切符では前もって座席の指定はできません。当日空港で行ってください。」

と言うつれない返事。それで、その日は、午後四時半に仕事が終わるや、タクシーで空港に駆けつけ、出発の四時間前にチェックインをした。しかし、空いていたのは、三席並んだ真ん中の席だけだった。「お客様相談所」で、交渉してみたが、「今日は満席だから」と取り合ってもらえない。

 僕の頭の中で「華麗なる一族」の音楽が流れた。出発の数週間前から、僕は妻と一緒に、キムタク、北大路欣也主演の「華麗なる一族」という番組のDVDを毎晩見ていた。その時、キムタク演ずる万俵鉄平が困難にぶちあたると必ず流れる音楽。それが頭に響き渡る。

 僕は覚悟を決めた。パニックアタックを心配する心が、発作の引き金であることは知っていた。一度主治医のドクター・カッテルに相談したことがある。

「あなたの発作は、後天的に作られた『ラーニング・リフレックス』(条件反射)だ。一度混んだ飛行機の中で発作を起こしたため、次から同じ状況になると、またそうなるんじゃないかと不安になる、その不安が発作を呼び起こすんだ。その不安の連鎖を断ち切れば、あなたの発作は治る。」

彼はそう言った。犬にベルを鳴らしながら何回か餌を与えると、ベルを鳴らすだけで犬は唾液を出すようになる。その「パブロフの犬」の実験を医師は例に挙げて説明した。そして、精神安定剤を処方してくれた。今回も、精神安定剤だけはしっかり持って来ている。

 四方を人に囲まれて二十二時間を過ごさなければならないことは、僕にとって大きなショックだ。ガッカリも良いところ。しかし、僕はチェックインを済ませてから、そのことについて考えるのは止めようと思った。少なくとも考えないように努力しようと思った。悩んでもどうしようもないことは悩まないに限る。僕はその場で、無理に笑顔を作り、免税店のショーウインドウに映った自分の顔を見た。顔はちょっと引きつっていた。 

 

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実験をする、パブロフ博士。

 

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