沈船めぐり(一)

 

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典型的なガダルカナル島の民家。

 

十二月二十五日。ガダルカナル島で迎えるクリスマス。休日なので、電気まで休みなのだろうか。洗濯機をセットして、朝食を始めたところで停電になってしまった。

朝食後G君は事務所に行くという。彼は休みの日にも必ず仕事場に顔を出してメールや週便物をチェックしている。また、体調を崩した隊員が出たときなど、昼夜や休日に関係なく、その対応に忙しい。調整員も大変な仕事なのだと思う。僕も一緒にJICAオフィスの前まで行った。

事務所には入らず、守衛のホーさんと話す。彼には僕と同じく十九歳の息子がいて、現在ニュージーランドで大学に通っているという。ちなみに、ソロモン諸島には大学がない。お金のある人は、オーストラリアかニュージーランドの大学に子供を送るわけだ。

「ご自慢の息子さんですね。」

と僕が言うと、ホーさんは満足気にうなずいた。

事務所からアパートに戻るとまた電気が来ていた。洗濯を終え、洗濯物を干す。こちらの気候では、どのような洗濯物も、一時間後には乾いてしまう。

G君と僕は、第二次世界大戦中に沈没した船を見にでかけることにした。僕らは海岸沿いを東へ向かった。ホニアラの町を出ると、コンクリートで出来た建物は姿を消し、たまに出会う集落に、現地の「代表的な」家々が現れる。高床式で(これは湿気と蚊対策だと思う)、壁は薄い木でできていて、屋根はバナナあるいはヤシの葉で葺いてある。三、四件が集落を形成しており、真ん中に小さな広場があり、そこには鶏が走り回っている。海岸はヤシの林になっており、ヤシの木立から見え隠れする海の色は、本当の「マリン・ブルー」。

三十分ほど走ったところで車を海岸に向ける。本道から海岸へ入るところにゲートがあり、お金を払わなければならない。G君によると、海岸にもそれぞれ利権があると言う。海岸のヤシの木の下に車を停める。見ると、ふたつの奇妙な物体が海面から顔を出していた。日本の輸送船の残骸だ。

亀井宏氏の「ガダルカナル戦記」によると、孤立した日本兵に補給物資を送るため、輸送軍団が形成され、一九四二年十月にガダルカナル島へ向かった。

第一分隊:長良丸、広川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸

第二分隊:山月丸、山浦丸、鬼怒川丸、信濃川丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸

どうして、日本海軍の輸送船に、敵国の名前が付いていたのか、何となく不思議な気がする。ともかく、その結果は・・・

「連合艦隊が全力をあげての護衛にもかかわらず、ガ島に着いた物資は全体の三分の一にも満たなかった。ショートランドを出発した輸送船十一隻のうち七隻が物資もろとも海底に沈み、四隻だけがタサファロングの海岸に乗り上げたが、座礁後も多くの糧秣、弾薬が敵手によって焼かれてしまった。」

目の前に見えるのは、辿り着いた四隻の輸送船のうちの二隻、鬼怒川丸、広川丸の残骸だった。

 

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後ろに見えるのは広川丸の煙突。

 

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