米原

 

午後の日を浴びながら、出発を待つ新快速の車掌さん。米原駅。

 

三月十七日、月曜日。本日の予定は、住民登録、病院での診察。午後に妻の実家のある金沢へ移動。病院へ行くためには、まず転入登録をして、国民健康保険証をもらわなければいけない。朝起きて大徳寺と今宮神社の中を散歩したが、寒気がする。気温が低いためか、風邪の引き始めなのかはわからないが、まずは要注意。九時に区役所で転入と国民健康保険の手続きを済ませ、病院へ。心電図と診察が終ったのが十一時半であった。心電図の結果は正常、一応、念のために来週循環器科の専門医と会うことになった。

十二時半に実家を出て、十三時二十分に京都駅に着く。鞄の中は金沢の親類へのお土産、チョコレートと紅茶で満杯である。病院での診察が終る時間が分からないので指定席は取っていなかった。「みどりの窓口」へ行き、湖西線経由富山行き「サンダーバード」の座席指定をしようとする。しかし、次の十四時十二分発は、普通車もグリーン車も皆満席であるとのこと。寒い中を、自由席の列に並ぶのも気が向かない。かと言って、その次の「サンダーバード」を一時間半以上待つのもかったるい。

ここで元時刻表少年の頭がピンとひらめいた。

「新幹線で米原まで行って、そこから名古屋発の『しらさぎ』に乗ったらええやん。」

調べてみると、次の湖西線経由の「サンダーバード」を待つよりは、米原で名古屋発の「しらさぎ」に乗れば三十分早く金沢に着ける、しかもグリーン車が使える。僕は自分の思いつきに満足しつつ、切符を手配し、新幹線ホームに向かい、携帯で金沢到着予定時間を義父に伝えた。そして、上りの「こだま」に乗り込み、一駅先の米原に向かった。

 もう三十年以上も前、京都を離れ、金沢で大学に通っていた頃、僕は帰省の際料金を節約するため、特急「雷鳥」には乗らないで、いつも急行「立山」に乗っていた。当時、既に湖西線は開通しており、「雷鳥」、「白鳥」、「日本海」などの主要列車はそちらを回っていたが、「立山」だけは何故か米原回りであった。米原駅は、新幹線の停まる駅にしては、ずいぶん何も無い寂しい場所だというのが当時の印象であった。

 三十年後、やはり米原は何もない場所であった。ホームには蕎麦屋があるだけ。売店はない。折り返し列車の車掌が暇そうにドアを背に日向ぼっこをしている。

 十四時五十九分、名古屋からの「しらさぎ」が到着。乗り込むと、列車はここで進行方向が変わるために、乗客が座席をぐるりと回している。ペダルでぐるりと回る座席、僕は日本以外で見た事がない。英国のインターシティーも、ドイツの誇るICE(インターシティーエクスプレス)も、フランスのTGVも、座席は固定で、全員が進行方向を向いて座れるというのはなかった。

 列車はガラガラである。グリーン車は三人くらいしか乗客がいない。列車は湖東を走り、敦賀から、一九六二年に完成した、一万三千八百七十メートルの長大な北陸トンネルに入る。トンネルを抜け、今庄、武生、福井と進むうちに、白山が見え出した。黄砂のせいか春霞のせいか、かすんで見える。

「しらさぎ」は十六時五十二分に金沢に到着。僕は改札口で、義母の出迎えを受けた。

米原を出て、逆方向、名古屋に向かう「しらさぎ」。

 

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